哲学・形而上学・因果応報・人権・貧困・物理学・生物学その他に関するよくある勘違い

 

Ⅰ 哲学・形而上学その他    ※真実は一つ、は数ある真実の一つに過ぎないΣ(oωo;lll

Ⅱ 因果応報          ※因果応報は一瞬で成就する_(꒪ཀ꒪」∠)_

Ⅲ 人権・貧困         ※人権は概念。元々ない(•̀ᴗ•́)و ̑̑

Ⅳ 物理学・生物学その他    ※時間も概念。元々ない┐(ツ)┌

 

 

Ⅰ 哲学・形而上学その他に関するよくある勘違い

 

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「真実は一つしかない」

人の数だけある。より細かく区切れば無数・無限にある。「一つしかない真実」は数ある真実の一つに過ぎない。「真実は唯一つ(それを知っているのは自分)」は、精神的未熟さ・傲慢から派生する勘違い。その視野狭窄した価値観に陥った者は、様々な矛盾即ち揉め事・いざこざ・トラブルを体験する羽目になる。「真実は一つ」という独善への執着も、争いの元。

 

「真実は一つ。人の数だけあるのはその解釈」

「これは真実だあれは虚構だ」は全てそう思う人の主観。どんな概念もその発言者・主体者の認識・解釈。言わずもがななので省略される。主観を介さない真実は存在しない。

 

「名探偵コナンも真実はたった一つと言ってる」

コナンの主観に過ぎない。その一つを作者(漫画の世界からすれば神)が津々浦々まで描けるから説得力があるように見えるだけ。現実はフィクションとは異なる。

 

「現実でも裁判では白黒はっきりつける」

全て裁判官や裁判員の主観。判決結果が常に正しいとは限らない。

 

「辞書に書いてある言葉の定義は真実」

「これが一般的に使われているであろう定義」をまとめた、編集者の主観。言葉は通じれば正しい。意味が通じている人同士の間では如何なる定義も真。

 

「それでも一つの真実を追究する事は大切」

追究は大事だが、執着は争いの元。裁判もまた争いの一形態。

 

「“真実は一つではない”という命題が唯一の真実なら、自家撞着する」

「万物は流転する・諸行無常」「この世に絶対はない」等の究極的命題と同様、当該命題自身を含まなければ矛盾はしない。単語の定義範囲を恣意的に限定し言葉を杓子定規に解釈すれば、これらの「究極的命題」の真意は理解が難しくなる。

 

「存在には目的がある」

無い。目的や存在理由・意味・価値等は人間が考え出した辻褄合わせのための後付け概念。それを定義するのは個人の主観。「存在はただ存在する」が存在の本質。

 

「存在する価値がないものも、この世には存在する」

価値の有無は主観で決まる。少なくとも、価値がないと感じる者にとって「価値がないもの」としての価値・意味がある(無価値も価値のうち)。本当に存在価値が無ければ最初から存在しない、とも言える。

 

「全ては無意味・無価値」

思春期にありがちなニヒリズム。その全てに「無意味であるという意味」「無価値であるという価値」がある。虚無主義自体が一つの思想哲学としての存在価値・意味があるので自己矛盾。

勿論、全ての物事・現象には元々一切意味がない(色即是空)。誰かが意味付けするまでは、あらゆる事象は最初から意味がない、全てはただ起きているだけ。「意味、価値、目的」は人が考え出した概念に過ぎず、それを見た人が主観で後から意味付け・定義付けしているに過ぎない。

しかし最初から意味や価値や目的が無いということは、どんな意味や価値や目的を見出すかは主体次第。つまり「全ては無意味」ということは、裏を返せば「全てに意味がある」(空即是色)を意味する。

無意味も意味のうちなので、この世に意味のない物は存在せず、意味のない事は起こらない。虚無主義の段階で思考停止している者は、単にそこに意味や価値を見出せていないか、見出さないことに自己憐憫・自己陶酔しているだけ。

 

「人生にはその者が果たすべき天命・宿命・使命がある」

それらもただの概念。この世には元来「義務」も「責任」も「せねばならない」「してはならない」事も一切無い。

 

「奇跡や偶然は存在する」

誇大妄想。それが存在すると思っている人がいるだけ。全ては必然であり起こるべくして起こっている。そして全ては元々意味がない。物事の摂理・必然性を理解・説明できない者が、その言い訳の為に偶然・奇跡・理不尽・不合理・矛盾等の概念を創り出しているに過ぎない。

 

「宝くじが当たるのは偶然」

単に当たるかどうかを不可知(故意に偶然性を高め前以て分からないよう)にしているだけで、何番が出るかは必然。

 

「不確定性原理により、全ては必然とは言えない」

人間の観測・感知できる範囲に物理的制限があるのも、また必然。

 

「全ては必然、は決定論で運命論で結果論に過ぎない」

「未来は不確定」も必然のうち。未来は現在の選択次第で変わる。決定論・結果論は、選択に対する責任放棄。過去を学ばなくて済むように多用される逃げ口上。

 

「この世に絶対はある」

絶対もまた「相対−絶対」という相対概念の片割れに過ぎない。全ては相対。上下、強弱、大小、明暗、南北、優劣、左右、長短、寒暖、軽重、有無、是非、善悪、白黒、主観と客観、光と闇、空間と時間、地球と天球、悟りと煩悩、Aと非A・・・この宇宙は二元的相対性を体験する場とも言える。

 

「この世に絶対はない、という命題自体が絶対なので自家撞着」

「諸行無常」「万物流転」や上記した「真実は無数」などと同様、いわゆる究極的命題に付き物の原理で、命題自身を含まない。文字を杓子定規に解釈する者にのみ、矛盾して見える。

 

「この世には絶対的正義・絶対善がある」

正義も善も悪も、相対概念に過ぎない。

 

「テロや犯罪は絶対悪。テロと戦うことは絶対善」

テロリストや犯罪者は自分たちの行為が悪どころか寧ろ正しいと思っている。彼らにとっては、自分たちの正義を理解せず一方的に悪と決め付け非難・攻撃したりする側が悪。立場・観点によって変化するものを「絶対」とは言わない。テロリストを殺す行為もテロ。故にクーデターを起こした軍隊に火炎瓶を投げつけるのもテロ。

 

「絶対零度は存在する。だから主の主張する”絶対は無い”は間違い」

哲学・形而上学でいう「絶対」と古典力学・熱力学上の「絶対零度」は別物。

 

「自分が存在するのは概念ではなく絶対的事実。よって自分の存在は絶対」

自分以外の何かがなければ自分を定義できない。自分以外があって初めて自分を認識できる。自分もまた「自分と非自分」という相対概念の片割れ。

 

「地球や太陽は絶対的存在」

其々「地球以外の全て」「太陽以外の全て」がなければ存在し得ない。存在もまた相対。

 

「1+1=2、2+3=5は絶対に正しい」

1+1=10、2+3=11にもなる。十進法のみが数学ではない。なお1+1=10もまた、0や1を“そのように定義”しているから成立するだけであって無条件即ち絶対ではない。

 

「サイト主は、虐めの原因は常に100%虐める側にあるとか体罰絶対不要論などと言ってる。絶対はないということと矛盾する」

「1+1=10にもなる」「体を骨になるまで焼けば人は死ぬ」「新幹線は自転車より速い」等と同様、当たり前のことを強調して述べているに過ぎない。「絶対はない」は「絶対にという形容詞を表現として使えない」を意味しない。

 

「目に見えるものだけが存在する」

視野狭窄。これが正しいとすれば、レントゲンが発見するまでX線は存在しなかったことになる。可視光線は電磁波の一部に過ぎない。テクノロジーが今後どれほど発達しても常に感知可能範囲を超えた波長が存在することは、帰納的にも明らか。

 

「人間の英知を以てすれば、最終的には宇宙の全てを知り得る」

もし全宇宙の全情報を1無量大数の1無量大数乗の1無量大数乗とするなら(1無量大数は10の68乗)、全人類が全人類史上で知り得る全情報量はその逆数にも満たない。物理的に無理。

 

「この世はバラバラ。同じものは一つとしてない」

全ては一つ。全ては形態(光・時空間・重力・熱・音・電気・情報・運動・物質・生命・経済・思念)が異なるだけで、根本は同じモノ(エネルギー、存在、汎神論でいう神)。

その為、全ては一つになろうとする(万有引力、共鳴、共感、拡散、放射、均一化、均質化、類友の法則)。

 

「生物の多様化は、多様性が生物の本質であることを示している。一つになろうとしてない」

多様性は表面的な形態や特性の違いでしかなく、生命自体は元々全て同質の現象。

一つである事が本質である証拠に、生物の場合一つになろうとする瞬間、快感を感じる(摂食、呼吸、性交、仲間との一体感)。快感とは「一つになる時」即ち「存在価値が向上する時」に発生する合図・シグナルという解釈も可能。

 

「代謝・排泄は一体化ではなく分離なのに快楽を感じている」

「一体化するとき、生物は快楽を感じる」は「分離するとき、快楽を感じる」を否定しない。尚、厳密には消化器官の(所謂)内部は体内ではなく体外。呼気が吸気の一環であるのと同様、排泄も摂食の一環。

 

「快楽は存在価値が高まる証拠だから、快楽を求める事は正しい」

快楽は結果であって目的ではない。快楽の目的化は不快・不平不満の裏返し。限度を超した快楽主義は、薬物依存や犯罪のように身を滅ぼす。

 

「これは私の物、あれは他人の物」

この世の全ては元々誰の物でもない。「一秒後の目の前の空間は我のモノ」という所有概念を複数が同時に同空間に対して持つと、その矛盾が発現して“衝突”が起こる。

 

「自由意思は存在しない。自由感は幻想・気のせい」

何が自由かは主観で決まる。自由だと思えばその人にとってはそれが自由。

 

「大地震は天災」

揺れに脆い建造物等で妥協した結果であり、人災。直接的に揺れを契機に死ぬ者すら、心臓発作等を除き殆ど存在しない。

 

「大津波は天災。人智ではどうしようもない」

利便性を優先して、近海の低地に津波に脆い建造物等で妥協した結果であり、人災。

 

「想定外の高波が来た」

そう主張する者に想像力が無いだけ。

 

「全財産が流された」

財産を一箇所にまとめればリスクが高まるのは当たり前。

 

「家族が全員死んで一人ぼっち」

地域住民・日本人・世界中の全人類を家族と思わず、自分の身近な人間だけを愛の対象としている証拠。孤独感は自業自得。

 

「故郷を元通りに戻したい」

元に戻しても将来同じ災害が起これば同じ被害に遭うので、元通りにしないのが子孫の為。

 

「故郷から出たくない」「郷土愛は大切」

己の記憶・IDへの執着であり土地信仰。日本・地球が故郷と思えないのは視野狭窄。

 

 

 

Ⅱ 因果応報に関するよくある勘違い

 

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「悪い事をした人は必ず報いを受ける」

個人的願望と因果応報は異なる。因果応報は瞬間的・機械的に起こるので、人為的な善悪概念や「何が悪事か」「何が報いか」等の主観・価値観には関与しない。寧ろ時系列を逆に「それまでにそれ相応の報い・影響を受けたからこそ悪事に手を染めた」と見る方が正しい。

時間差があるのも因果応報ではない。例えば他人を「罵った」としても必ずしも相手から同様に「罵られる」とは限らないし、他人の命を奪った者が他人から命を奪われるとも限らない。「罵られたから罵った」は「不愉快を解消したい」という目的・願望・観念が間に入っているので、因果応報ではない。

実際の因果応報は、時間をおかずに成就する。例えば、「罵った」瞬間に快感を感じたり、「罵られた」と感じた瞬間に不快感を覚えたり、憎悪の念を抱いた瞬間に細胞レベルで本人の身体を傷付け健康を害したり、相手に不自由を与えた瞬間に自分が不自由を感じたり(マナー違反を見て憤慨する)、など。

 

「起きる事は全て正しい」

正しいかどうかは観点(見る者の希望・目的に適うか等)による。必ずしも「起こるべくして起こった=正しい」ではない。

 

「悪い事が起きた」

起こるべくして起こった、ただの現象。前以て心の準備等を怠っていたりエゴに執着したりしているために、「(都合が)悪い事」と感じるに過ぎない。如何なる事象も、因果応報により今までの行為から派生し蓄積されていた業・カルマが消えた瞬間であり、寧ろ祝うべき喜ばしい結果という見方もできる。

 

「人が死んでるのに喜び祝うとは何事か」「人の死を喜ぶのは危険な思想」

そう主張する者自身が、死んだら嘆き悲しむしかないという古典的な死生観・固定観念に囚われている証拠。悲しみは「自分が会いたい時に会えない」等のエゴに起因する感情。悲しむしかない柔軟性の欠けた思想もまた、テロリズムの派生元。

 

「正直者が馬鹿をみる世の中は間違っている」

当人の愚直さや損得に対する執着心を誤魔化し正当化や善人アピールしたい時にしばしば用いられる詭弁。バカをみるのは、正直者だからではなくバカ者だからである。真の正直者は常に正直をみる。

 

「馬鹿をみたくなければ、他人を蹴落としてでも不正直になれば良い」

極論の典型。馬鹿をみたくなければ己が聡明でありさえすればよく、わざわざ他人を蹴落とす必要はない。

 

「願いは叶う」

必ずしも叶わない。例えば金持ちになりたい、という願望は「今は金を持ってない」という現実認識が無いと生まれない。つまり「金持ちになりたいなりたい」と強く願えば願うほど「今は金を持ってない持ってない(だから金持ちになりたい)」という思念を強めることになる。結果、願望の裏にある思考が現実化し、金を持ってない状態が長引くことになる。

 

「子供がとある玩具を欲しがっていたので親が与えた。子供の願望が叶った」

その場合、叶ったのは寧ろ親の願望(子供の願望を満たしたい、喜ぶ顔が見たい)。

 

「思考は必ずしも現実化しない」

「必ずしも現実化しない」と思えば全くその思考通りの「必ずしも思考が現実化しない現実」を体験するので、結局は100%現実化する。自我が芽生える前は主に他人が創造した人生を経験するが、自我が芽生えた後は、次第に自らが認めた定義付けどおりの人生を経験する割合が高くなる。いずれにせよ思考が先(原因)で現実が後(結果)。

なお人が意識的に行動しそれが現実化すると「ほらやっぱり思った通り」と感じる。こうした体験の繰り返しがその人の固定観念を形成する。

 

「性悪説が正しく、性善説が間違い」

本来は善でも悪でもない(真っ白)が、強いて言えば性善説が正しい。人が生来持つ能力「模倣(同一化)」は愛の現れであり、対象を真似るのは愛所以。赤ん坊に真似る能力があるのは、人が本質的に愛・善である証拠と言える。悪に育つのは、教育内容が未熟で未整備な証拠。

 

「赤ん坊は基本的に自分のことしか考えない。泣きたいときに泣くし我儘できない。食べて良いモノと悪いモノの区別も付かない。だから性悪説が正しい」

赤ん坊本人に善悪の観念は無く、ただ単に無知で自然(あるがまま)。無知や無為自然は罪でも悪でもない。悪に育つのは、そうなるように育てられた後天的な結果。なお育て方を間違え(られ)た者やまだ発育途中にある者ほど、自己正当化のため性悪説を支持したがる。

 

「過去の経験の結果が今の自分」

そう思っている結果が今の自分。経験の原因は全て観念にある。真逆の「観念の原因は経験にある」という観念も含む。

 

「過去は存在する」

時間や神や天国と同様、過去は(概念としてしか)存在しない。過去とは「今の自分から見た情報・記憶に対する解釈」に過ぎない。存在するのは常に「今」であり、常に今の自分の価値観が「過去」を定義する。

 

「過去は変えられない」

過去とは「現在の価値観から解釈した記憶」に過ぎないので、観点を変えれば過去は変わる。物事に対する見方・視点が変化すれば、過去に対する評価が変わる。従って、過去に対する考え方・定義付けを変えれば「過去は変わる」。つまり今の自分が変われば過去も変わる。

 

「自分が変わっても過去は過去。既に確定した不動のもの」

起こった出来事に意味はない。ただそれは起きたというだけ。意味はゼロ、無、空。「最初から意味のある事象」は存在しない。出来事をどう捉え解釈し評価するかは、それを見た主体がその時の主観で決めている。だから記憶や史実や真実は人の数以上にある。過去もまた同じ。不動だと定義し思い込んでいるから、その通りの体験をしているに過ぎない。

 

「自分はどこへ行っても自分でしかないのだから、過去に対する見方も生涯変わらない」

明日、とある思想に触れて人が変わり、10年後にはすっかり人が変わって過去に対する解釈も変わっている可能性はある。変化しない人間は存在しない。長年を経た後に同じ本や映画を見たり話や歌を聞いたりした時にその感じ方・捉え方が異なるのは、その個人が成長・変化している証拠。

 

「過去に向き合いさえすれば、過去は整理できる」

自分自身の価値観・固定観念が変わらなければ幾ら向き合っても過去は変わらない。同じ価値観で同じものを見ても解釈は同じ。解釈を変化させるにはまず自分自身が変化しなければならない。本やテレビやネット等各種メディアを通して様々な観点・考え・思想を学び、視野を広げ多角的視点から物事を見る目を養うことが何より肝要。

 

「あれは自分にとって不必要な体験だった」「消したい過去がある」

この世には初めから意味ある現象・体験はないが、逆に言えば全ての体験に幾らでも意味づけが可能だということ。不必要な体験なら最初から体験しない。つまり体験には全て意味があり、人生において無駄な時間は一瞬たりともない。だから幾ら「無かったことに」しようとしても、その必然性を理解しそこから何かを学ばない限り、何度も似たような体験をする。

この世の全ては必然であり、偶然や意味のないことなどは存在しない。存在するという者はその必然性が理解出来ていないだけ。

 

「人間は変わらない」

本やネット、映画、漫画、TV、他人との対談、議論、音楽、ゲームなどの遊びを通して、多くの知識を得て体験を積み様々な考え・知恵を学び視野を広げ、多角的な視点・観点を身に付ければ、先天的な学習障害でもない限り己を高めることは誰にでも可能。

 

「日本人のアイデンティティは我欲」

心理学でいう投影。主張者自身がエゴイストであることを吐露しているに過ぎない。

 

 

Ⅲ 人権・貧困に関するよくある勘違い

 

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「人の命の尊さはみな同じ」

何であれ意味や価値は見る人のその時の主観によって変化する。「みな同じ」もそう主張する人の主観に過ぎない。

 

「誰にでも人権がある」

誰にも元々人権などない。人権とは約300年前に人類が考えついた新しい概念の一つであり、幸福追求の道具に過ぎない。

 

「人を殺してはいけないと法律で定められている」

少なくとも日本では「殺人した者は斯く斯く然々の規定により処罰される」というルールはあるが、「殺人するな」という法律がある訳ではない(そのように言及するのは法律ではなく宗教)。多くの人は「ある条件下(死刑や戦争、安楽死・尊厳死等)では殺人も止む無し」と考えている。無論その条件をどう規定するかはその時の社会通念で決まる。

 

「誰でも殺人する自由と権利がある」

同時に「勝手に殺されない自由と権利」もある。自由や権利は通常、相手の自由や権利を侵害しない範囲で認められる。自分の権利のみ主張するのはただの我儘。精神的に健全で正しい判断ができてれば殺人願望は生じない。正常な判断が出来ない者については、子供や知的障害者同様その自由や権利を制限した方が良い。

 

「貧困や飢餓はなくせない」

やるべきことをやればなくなる。「何かが足りない」「貧困になりたくない」「飢えで苦しみたくない」という観念が強い人が地球上に多いと、その不安・恐怖故に持っている財を手放さないため、物流が滞り富が必要な人に行き渡らなくなる。貧困や飢餓はそうした人々の心の病が具現化したもの。

貧困を無くすには、人々の心を豊かにすれば良い。心の貧しさ(私財への執着)を責めるのは逆効果。なお、既に名も無き人々の不断の努力により解消されている貧困・飢餓は世界中にある。ニュースになることだけが真実ではない。

 

「ホームレスは自業自得。助ける必要はない」「飢えで苦しむ子供がいても、助けるとその子供の為にならない」

無関心な自分への罪悪感を薄めるための言い訳。子供を放置/ネグレクトする親などと同様、このような愛と想像力に欠けた人間もまた“助けるべき対象”といえる。

 

「飢えに苦しむ者が窃盗したら、敢えて見逃すのも道徳的には正しい」

捕まえて炊き出しの場所や窃盗しないで済む生活の知恵を伝授する方が、正しい。間違った飢えの凌ぎ方を勘違いさせたままでは問題の解決にならない。

 

「大学は黒人の入学金を安くしたり、黒人の比率を高めるために多少試験の成績が悪くても黒人を優先させて入れるべきだ」

アファーマティブアクションは逆差別の典型で、真の問題解決を延期させる。金持ちの黒人や貧乏な白人もいれば両方のDNAを持つ人もいる。有能な子供に奨学金等を与える仕組みを作るのが先。結果(比率を高めること)を目的化するのは本末転倒。

 

「とある個人があれだけ儲け(損し)ているのは本人の才能と意志と努力の(無さの)結果」

能力を社会が評価するからこそ、努力も報われる。環境が違っていれば何に価値を見出すかも変わるので、本人の行動もまた変わる。努力も才能の内。モチベーションも周囲の影響に依る。従って個人の稼ぎは、結局のところ彼が関わる地域の社会通念で決まる。

 

「女性の方が男性より収入が低いのだから、レディースデイは差別ではない」

似非平等主義的な逆差別であり差別の一種。収入の低い男性もいれば高い女性もいる。個と集団の区別を付けないのは差別。ともあれ女性限定に商機を見出すのは商売の自由。

 

「ボランティアや寄付は偽善で自己満足」

言い訳をして何もやらないのも、偽善で自己満足である点では同じ。やらぬ善よりやる偽善。労働力の代わりに金銭を恵与する事もボランティアのうち。

 

「集金するには街頭募金が最も効率的」

全員が各自アルバイトをして稼いだ分を募金した方が、「本人たちの社会勉強になり」「地域経済に寄与し」「効率的に集金できる」ので一石三鳥。

 

「五輪開会式に渡辺直美に豚の衣装を着せるのは女性蔑視」

東京五輪開催式で渡辺直美氏を「如何に可愛くするか」苦心していた佐々木宏氏に、差別の意図はない。寧ろ佐々木氏を批判する人ほど、その心根では「豚は醜い動物で、太った人はどう演出してもカッコ良くも可愛くもクールにもオシャレにもならない」と体型差別している。これは偽善的反差別主義者による自覚なき自己欺瞞。

もし大勢の個性豊かなダンサーが圧倒的パフォーマンスで開会式を盛り上げていたら、世界中のどれほど多くのルッキズムを払拭しコンプレックスに悩む人々に勇気を与えたか、計り知れない。一部の過剰反応によってその機会を逸したことは、人類の一時的退歩。これは事の本質を見極めず安易に大衆迎合したマスコミや政治家やスポンサーの問題でもある。

 

 

 

Ⅳ 物理学・生物学その他に関するよくある勘違い

 

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「時間は実在する」

概念として存在するが、実在はしない。時間とは物体の周期的な変動から便利の為に人々が作り出した概念/道具に過ぎない。

 

「卵が先か鶏が先か。生物化学的観点から、卵が先」

言葉の定義を厳密にすればその通り(鶏モドキが、鶏の卵を産む)だが、命題の意図を最大限汲み取るなら卵も鶏も形態が異なるだけで同じ生命体なので「同時」が正しい。

 

「地球上の生命の営みは全て太陽光の恵み」

太陽光の届かない海底に、地熱のみで循環する生態系も存在する。太陽光は必須ではない。

 

「宇宙は膨張している」「宇宙はビッグバンから生じた」

膨張していると仮定すると様々な観測結果との辻褄が合うというだけで、いずれも仮説に過ぎない。

 

「地球は一年経つと元の位置に戻る」

太陽系自体が銀河の周りを約2億年掛けて回転し、銀河系自体も移動しているので二度と同じ位置には来ない。

 

「銀河系の中心に近い星ほど回転速度が早い」

太陽系とは異なり、中心も端もほぼ同じ速度。この矛盾を解消するために考え出されたのがダークマターやMOND(修正ニュートン力学)。

 

「夜空が暗いのはそこに星が無いから」

人間の目の感知能力・光の伝達速度に限界があるから。観測不可=存在しない、ではない。

 

「月が常に同じ面を地球に向けているのは不自然」

長い間を掛けて安定した結果生じる自然な同調・共鳴現象。同様のシンクロは木星の主な衛星の公転周期等にも見られる。実際には月は僅かながら摂動しているので、表面積の60%程度が地球から観測できる。

 

「月と太陽の見掛けの大きさがほぼ同じなのは不自然」

たまたま今の時期に同じくらいのサイズに見えるだけ。地球は太陽からも僅かに遠ざかりつつあるが、月が地球から遠ざかる速度の方が早い。この為、数億年後には月の方が見掛け上小さくなるので、皆既日食が観れるのは今だけ。

 

「光速は約30万km/sで不変。光速を超えるものはない」

光速不変はあくまで「光速は光源の運動に無関係」の意味。30万km/sは真空の性質を示すパラメータ・換算定数。光速は伝播する空間の性質により変化し、水中では空気中より遅くなるので屈折が起こる。水中での宇宙線のように、媒質によっては光速を超える粒子もある。

 

「ブラックホールに落ちる時は時間の流れが遅くなるのでなかなか落ちない」

外から観測するとそう見えるが、落ちる側からするとあっという間にスパゲティ状になりペチャンコになる(認識にも時間が掛かる為)。

 

「量子力学では無から有が生じる事が確認されている」

少なくとも現在の観測技術で感知できないだけ。測定できないからといって存在しないこと(無)にはならない。

 

「シュレーディンガーの猫は、重なり合った状態が観測によって波動が収縮することを示している」

単に「観測結果は観測者が観測するまで分からない(確率や可能性でしか語り得ない)」ということ。遠い過去や未来におけるマクロな事象についても同様。

 

「量子力学によるとパラレルワールドは存在する」

説明できない事象に対する辻褄合わせのための一解釈に過ぎない。観測不可なら存在を否定できないが、それは存在することを意味しない。「存在を否定できないなら存在する」は無知論証。

 

「観測できない宇宙は、その宇宙が存在しないのと同じ」

観測できないだけでは存在しないことにもならない。観測不可が不存在の証明になるなら、X線が発見されるまでX線はなかったことになる。

 

「存在しないことを否定できないということは、存在するということ」

「白でなければ黒」と同じ二元論。単純明快で分かりやすいが、論理的に間違い。白と黒の間には無限の灰色がある。科学的に正しい答えは「存在するかしないかは分からない」。分からないというべき所を分かると主張する人は非科学的で傲慢な人であることが多い。

 

「鏡に映った人間が左右対称に見える鏡像反転は説明が付かない」

人間の体が左右対称だから、で説明可能。

 

「山は動かない」

数億年掛けてグネグネ、ウニウニと動いている。たまたま今の瞬間そこが盛り上がっているだけ。

 

「原子力・太陽光・風力発電は一切CO2を排出しない」

製造・運搬・解体・廃棄の過程で排出する。原子力は、CO2より危険な放射能物質が排出される。

 

「311の事故で原発は人類に制御不能と判明した。原子力は全廃すべき」

応用開始から僅か半世紀の黎明期真っ只中の原発技術を「事故が起きたから全廃」というなら、「飛行機が墜落したので全ての航空機は全廃」「年間数万人が死傷してるので自動車は全廃」とも主張しなければダブスタになる。感情論に与せず、得られた知見を教訓として次世代へ生かすべき。

 

「オーケストラや合唱に指揮者は要らない。メトロノームで事足りる」

たとえ特定の楽器に全員が合わせたとしても、光速より遅い音速に起因する微妙なズレが生じる。メトロノームでは全体的な抑揚や強弱による人間的な感情表現が失われるので味気なくなる。

 

「生物の目的は進化や子孫繁栄だ」

「目的がなければ存在しないに違いない」というバイアスが見せる結果論。各種環境因子によるDNAレベルの変化が齎す結果を後から進化や退化と定義したり、自己複製するものを生物と定義したりしている為に、そのように見えるだけ。

 

「ヒトは最も進化した生物だ」

知性が他より発達したことのみを以て進化とは言えない。どんな過酷な環境にも適応する生物や既に何億年以上もその姿形を変えない生物こそ最も進化している、とも言える。

 

「弱肉強食。シマウマは弱いからライオンに食われる」

肉食獣は草食獣が存在しなければ絶滅する。「強者は弱者がいなくても困らない。依存するのは弱い方」とするなら、「強肉弱食」が正しいとも言える。強弱も善悪などと同様、相対概念。視点や基準を変えれば逆転する。

 

「この世は弱肉強食だ、適者生存だ、競争社会だ、勝たねば生きられない」

勝利至上主義に洗脳された者の自己投影。共生もまたこの世の摂理。現存する生物は全て環境に適応している暫定的勝者とも言える。

 

「蜂は幼虫用の部屋を六角形に作る」

結果的に六(=二次元の接吻数)角形になるだけで、恐らく彼ら自身は一つ一つを丸く作っているつもり(最も効率的かつ丈夫)。

 

「パンダの色はどう考えても不自然。パンダは人為的に作られた」

動物の皮膚の模様はチューリング・パターン(二成分の反応拡散方程式)で全て説明が付く。パンダの白黒もシマウマ等と同じく縞模様の一形態。

 

「いや〜ん♡瞳がウルウルしたチワワがプルプル震えてチョ→カワユイ〜ん」

ブリーダーが極端な近親交配を繰り返したため、頭が大きく体が痩せ細り先天的に病弱な体質を持ったもの。長期間を掛けたDNA操作であり、動物虐待の一種。

 

「いや〜ん♡猿回しのおサルさんがとっても賢くって面白くってカワユイ〜ん」

猿自身にとっては面白くないことを無理矢理やらされ、ストレスや恐怖心からしばしば腕を噛むなど自傷行為が見られる。人間のエゴの発露であり、動物虐待の一種。

 

「毛皮は本物に限る」

コストパフォーマンス向上のために、脳天を殴打し生きたまま全身の皮を剥ぎ取っている業者もいる。動物虐待を幇助しているようなもの。

 

「蝸牛・牛・豚・鶏は食していいが犬・鯨・海豚・鳩はダメ」

ダブルスタンダード。宗教の一種。

 

「植物は食していいが動物はダメ。植物は痛みを感じない」

ダブルスタンダード。植物も動物ほどでは無いにしろ動く生き物。動物とは異なる方法で痛みを感じている可能性は否定できない。

 

「植物は動物とは異なる。ベジタリアンは正しい」

植物もグネグネウニウニ動いている。確かに肉食は多くの穀物や水を消費するので飢餓を促進する側面はあるが、実際の飢餓は(独占、紛争等)構造上の問題によって引き起こされる。

 

「動物園は動物虐待」

収監によって動物が苦痛やストレスを感じているならその通りだが、悠々自適に暮らしているなら虐待とは言えない。快適な居住空間の提供。いずれにせよ「動物を自分達が用意した場所内で飼育する事」はペット飼育と同じく人間のエゴ。

 

「傷には消毒液を付けた方が良い」

強過ぎる消毒液は傷の周りの正常な細胞をも殺し修復機能を阻害するので、却って治りが遅くなる。

 

「ウィルスは非生物」

定義次第。生物と非生物の中間のような存在とも言える。

 

「風邪は移されないようにした方が良い」

避けてばかりいると免疫がつかず貧弱な体質になるので、ある程度は故意に感染し免疫力を付けた方が良い。世界中の人々が集まったとある観光地で食中毒が発生した際、重症化したのは日本人だけだったという例がある。赤ん坊は動物園に連れて行くなどし、徐々に慣らすと良い。

 

「脳死判定後に生き返った人はいない」

実在する。判定基準や測定機器の性能や医者の診断が常に正しいとは限らない。

 

「脳死状態の人間は痛みを感じない」

最先端医療測定器が神経の作用全てを感知できる、とは証明されていない。

 

「全人類はアフリカにいた1人の女性から生まれた」

ミトコンドリア・イブに関するよくある勘違い。彼女は「現生人類に共通の直近女系祖先」であり、これまで子孫に女性が途絶えることがなかったラッキーな人。あくまでもミトコンドリアDNAについてのみに言えることで、「全ての遺伝子情報がその女性に由来している」とか「彼女以前に地球上に女性がいなかった」ということではない。

 

「DNAは1人につき1つしかない」

部位や臓器毎に複数の異なるDNAを持つ人もいる(キメラ、モザイク)。

 

 

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