死刑に関するよくある勘違い

 

Ⅰ 死刑の抑止力        ※死刑があると却って殺人増える(・△・)

Ⅱ 殺人発生のメカニズム    ※殺人の原因は唯一「加害者の病んだ心」(>o<)

Ⅲ 贖罪・社会正義・終身刑   ※「命は命で償える」「死んでお詫び」は綺麗事⁽⁽꜀(:3꜂ ꜆)꜄⁾⁾

Ⅳ 厳罰化・更生その他     ※「更生しない」は根拠がない乁(°ω°`乁)

Ⅴ 冤罪            ※死刑廃止すれば少なくとも冤罪死刑を無くせる(・A・)

Ⅵ 死刑廃止論         ※「廃止論は偽善」は自己投影ꉂꉂ(ᵔᗜᵔ◍)

 

 

Ⅰ 死刑の抑止力に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP 

 

「死刑が存置されていれば凶悪事件は減る」「廃止されれば凶悪事件が増える」

死刑がある場合、国民の間に以下のような心理メカニズムが働く。

 A.「死刑があるので流石にこのキチガイも一線を越える可能性は低いから、多少挑発しても大丈夫だろう」

 B.「国家ですら死刑を認めるのだから、社会に迷惑なゴキブリに生きる権利は無い」

 C.「万が一ここで自分が殺されても、国家が復讐して仇を討ってくれる」

 D.「生きるのが苦痛で死にたいが自殺できない。死刑になるようなことをすれば国が殺してくれる」

 E.「これだけ殺せば自分は確実に死刑だろう。どうせ死ぬならもっと多く道連れにして社会に恨みを晴らしてやる」

 F.「役人や政治家に人を殺す権利があるなら自分にもある」

その結果、彼らの態度がより排他的攻撃的で粗暴になり、心ない言動が横行して揉め事や争いが生じ、凶悪事件が増える。

逆に死刑が廃止され最高刑が無期懲役の場合は、国民の間に以下のような心理メカニズムが働く。

 a.「死刑が無いため限度を知らないこのキチガイが一線を越える可能性が高くなるかも。なるべく挑発しないようにしなければ」

 b.「国家ですら死刑を認めないのだから、社会に迷惑なゴキブリにも生きる権利がある」

 c.「万が一ここで自分が殺されても、国家が復讐してくれないので死に損」

 d.「生きるのが苦痛で死にたいが自殺できない。死刑がないので国も殺してくれない」

 e.「これだけ殺せば自分は確実に無期懲役だろう。出所させられたらまた殺せば良いのだからこの辺で止めてやる」

 f.「役人や政治家に人を殺す権利がないなら自分にもない」

その結果、彼らの態度がより慎重かつ軟化し、差別的言動が抑えられ揉め事や争いひいては凶悪事件が減る。

 

「廃止されれば凶悪事件が増える」

実際には逆で、米国では廃止州の平均殺人発生率が存置州のそれを毎年下回っている(下記URL参照)。なお存廃両州に跨って凶悪犯を犯した者が、存置州での裁判を自ら希望し死刑になった事例もある。

http://www.deathpenaltyinfo.org/deterrence-states-without-death-penalty-have-had-consistently-lower-murder-rates

 

「存置州より殺人の多い廃止州もある」「最も殺人率が高い首都ワシントンD.C.は廃止している」

サンプルは多く取るべきで、一部の結果を以て結論付けるのは詭弁(チェリーピッキング)であり非科学的。なおD.C.は他州に比べ極狭い特別区なので、統計学上異常値と見做せば存廃州の数値差は更に広がる。

 

「廃止した州は治安がいいから廃止した。廃止したから殺人が少なくなったのではない」

「治安がいいから」という理由で廃止する州や国はこの世に存在しない。廃止州の方が元々民度が高い或いは理知的で寛容で先見性に富む者が多いからこそ、廃止できて尚且つ治安もいいのである。

 

「アメリカ国内の比較だけでは信憑性が無い」

犯罪の背景には様々な要因があるので、慣習・文化・宗教・地理・政治・経済・歴史・国民性が異なる国同士で比較する方よりも統計上は遥かに有意味。

 

「死刑がある方が、普段からキレやすい人も流石に自制するので事件に至らない」

・・・と思っている一部の市民が横柄で不遜な態度を取る確率が増えるため、他人を徒に煽り刺激し事件に至る可能性が高まる。

 

「死刑がある方が、精神異常者・人格障害者による殺人事件が減少する」

・・・と思っている一部の市民が安易に障害者差別する傾向が強まるため、冷遇を受けた人格異常者による殺人事件が起きやすくなる。

 

「死刑がある方が、外人による凶悪事件が減る」

・・・と思っている一部の市民が露骨な外人差別をするようになるため、恥辱屈辱を受けた外人による凶悪事件が増加する。

なお死刑存置国は廃止国と「犯罪人引き渡し条約」を締結できないため、凶悪犯が廃止国に逃亡した場合に日本国内法で処罰できなくなるというデメリットもある。「そんな危険人物は日本に来なくて結構」というスタンスは相手国や被害者の立場を理解しないエゴイズム。

 

「死刑囚に聞き取り調査したら誰一人犯行前に死刑の可能性を考えてなかった。だから死刑には抑止力は無い」

実際に抑止力が働いたかどうかは、実行に移さなかった人(抑止が働いたケース)も含めなければ意味が無い。調査サンプルが偏っているので、抑止力が無いことを示す証拠にはならない。

 

「死刑を執行したり執行を早めれば殺人が減る、というコロラド大学のネイシ・モカン氏の研究結果がある」

その研究結果は、「死刑執行」ではなく「死刑報道」に抑止力があることを示している。何人執行しても報道されなければ効果がなく、政府とマスコミが協調して適当な時期に死刑報道するだけで同じ効果が期待できることになる。つまり「執行が必須」を意味しない。

また殺人の減少は「厳罰化により隠蔽工作が一段と巧妙化し、不審死が増え当局の殺人認知件数が減った結果」と見ることもでき、単純に報道が抑止になるとも言えない。また、米国とは逆に日本の場合は同様の条件下で「各新聞が死刑報道をした後数ヶ月間は殺人が増える」という研究結果もある。

都合のいいデータを拾い集めて辻褄を合わせれば幾らでも「疑似科学論文」を仕上げることは可能なので、論文があるというだけで思考停止せずに統計リテラシーを高める事が肝要。

 

「カナダ・韓国では死刑を廃停止したら殺人が増えた」

それ以外の国では殺人は増えていない。殆どの廃止国で有意味な変化が見られないにも関わらず、都合のいい少数例のみを以て結論付けるのは、チェリーピッキング(詭弁)。

犯罪率の増減には政治経済など種々の要因や国民性が複合的に重なり合う上、犯罪者を擁護する風潮の高まりや移民の増加或いは警察官が増えるだけでも、認知件数は増える。グラフ上の推移から短絡的に「廃止が原因」と断ずるのは結果ありきの暴論であり、前後即因果の誤謬。統計学的にも説得力が無い。

 

「イギリス・イタリアでは廃止後テロが増えた」

テロを起こす口実は様々だが「廃止されたから」という理由で殺人するテロリストはこの世に存在しない。存在すると主張するのは、テロが起こる仕組みや政治情勢・社会的背景・テロリストの行動心理に無知な、平和ボケした幸せ者だけ。表面的な事象のみで理解したつもりになるのは、「雨乞いしたら雨が降った。雨が降ったのは雨乞いしたからだ」と同類の勘違い(前後即因果の誤謬)。

 

「日本は死刑制度があるお陰で平和で安全」「社会秩序を保つ為に死刑は必要」

「日本は九条があるお陰で平和」と同レベルの空理空論。日本の平和は生粋の日本人の持つ謙虚さ・温厚さ・発想の柔軟さや、協調性・公益を重視し和を尊ぶ国民性がその要因。

死刑にはそれを回避するための逃亡や完全犯罪の企図、目撃者の口封じ殺害や偽悪趣味・拡大自殺を誘発し、上述のように人々の心を荒廃させる効果があり、秩序どころか犯罪の凶悪化・隠蔽工作・捜査の長期化・コスト増大化を招く。

 

「誰でも死は怖い。だから死刑に抑止力はある」

本当に誰でも死が怖いなら、自殺も自爆テロも起こらない。「自分がそうだから他人もそう」は「主観の客観化」という錯誤。強烈な殺意体験に乏しく犯罪心理学に疎い幸福者による、楽観主義的な希望的観測に過ぎない。

一旦殺意を抱いた者が殺人を思い止まるのは「死刑になるかも」のような不確かな基準ではなく、次のような理由からである。

 (1)良心が痛む、人としてやってはいけない、周囲に迷惑を掛ける、世間体が、マスコミで取り沙汰されるのは恥ずかしい、ご先祖様に顔向けできない、末代までの恥、殺害せずとも問題解決の手はある筈、時間と共に冷静になった、まだ我慢できる、人生まだやり直せる、逮捕されたくない、殺人は不快、反吐が出る、等々。

裏を返せば、次のようになる。

 (2)良心?ナニソレ、一度でいいから人を殺したい、周囲に迷惑を掛けているのは寧ろ相手、世間体?糞食らえ、ワイドショーで騒がれ有名になりたい、先祖?は?知らんし、子孫?は?要らんし、最早殺す以外に手はない、時間と共に憎悪が募る、もう我慢できない、どうにでもなれ、逮捕されたい、殺人は快楽、興奮する、等々。

死刑の抑止力を証明するには、本心から(2)を肯定し(1)を否定している殺人計画者が「死刑はイヤ」という理由だけで思い留まった実例や、「死刑の不存在が凶悪犯罪起因の十分条件になる論拠」を一つ提示すればよい。現実には、その科学的根拠がないことに気付き始めた国や地域が、次々と廃止している。

 

「殺人の計画中に死刑を考えて思い止まる人はいる」

計画的殺人の場合、バレなければ逮捕されず逮捕されなければ死刑もないため、思慮するのは専ら発覚防止。死刑回避のための事前策が隠蔽や逃走の企てより優先されることはない。即ち「計画中に本気で死刑を恐れることがない」ので、抑止にならない。

実行に移す者は「バレないor逃げ遂せるor警察は馬鹿だから幾らでも騙せるor検察官には否認だけして後は黙り通すから死刑はないor証拠不十分で不起訴or情状酌量で死刑はないor裁判では一世一代の演技をして騙すorいざとなったらキチガイのフリをすれば死刑免除されるor首筋鍛えれば絞首されても死なないor死刑上等」などと思い込んでいるので、死刑は抑止にならない。

実行に移さなかった者は途中で「バレるかも」「逃げ切る自信がない」「やはり殺しは良くない」等と思い止まった者であり、この場合抑止しているのは死刑ではなく「世間の目・警察権力・良心の呵責、即ち事前に習得した知見」である。つまり抑止力は常に教育にある。教育がなければどれほど立派な法律もただの文字列。

 

「私は死刑になりたくないから殺人しなかった。死刑がなかったら私は誰々を殺していた。よって死刑に抑止力はある」

本当に死刑のみを回避したいなら、犯行後に自首(当局が事件を認知する前に出頭)して捜査に全面協力し、裁判で終始頭を垂れていれば可能。そうしないという事は、実際には死刑以外の「相手の反撃or殺害行為そのものor逮捕・拘束・自由刑or拘置所で他人に肛門の中を覗かれる屈辱or世間体等」を恐れているか、さもなくば「さほど切迫した殺意ではない」証拠。

「金が欲しくて窃盗」の弁明が、真に欲しいのは金そのものではなく「金で買える食料や贅沢品、借金苦からの解放等」なのと同じで、仮に「死刑があるから」と主張する者がいたとしても真の理由は必ず別に存在する。

勿論上述は、殺人を図る者が少なくとも「必ずしも逮捕されない、必ずしも死刑になるとは限らない」という現状を認知している、という前提の上に成り立つ。

もし「必ず捕まり必ず死刑になる」と教え込まれ、それを微塵も疑っていない世間知らずで純粋であまり賢くない者が実在し(要証明)、彼が「死刑になりたくない」という理由“だけ”で(要証明)本気で意図していた(要証明)殺人を止めたなら、彼に対して抑止力が働いたと言える。だが現実には、そのような理想的人物は実在しない。

 

「死刑が無くなれば殺人に対するハードルが下がる」

上述の通り、「現在さほど差し迫った殺意がなく死を恐れ遵法精神溢れる善良な市民」による希望的観測。

 

「例え善良な市民でも、死刑が無くなれば殺人する可能性はある」

「死刑がないなら殺人しよう」と考えるなら善良ではない。殺人の背景には様々な要因があり、どんな極悪人でも「死刑が無いから」という理由では殺人しない。善人では尚更。存在するとすれば、漫画や映画を見過ぎて架空の極悪人と現実の極悪人の区別が付かなくなった人の脳内のみ。杞憂。

 

「死刑が無いから殺人したと主張する者がいる」

奇を衒った口実・虚勢。口実を鵜呑みにしても真の原因(犯罪者の心の病)への対処が遅れるだけ。

 

「現に口実にする者がいる以上、死刑は無くすべきではない」

同じ口実で比べるなら「死刑が無いから」よりも「死刑があるから(死刑になりたくて)」という口実で殺人する者の方が圧倒的に数が多く凶悪化もするので、廃止した方が殺人は減ることになる。

いずれにせよ口実を真に受けていては真の原因究明に繋がらない。「レイプビデオを見たから」というレイプ犯の口実を真に受けてレイプビデオを規制しても、それは「真因(レイプ犯の人格障害・精神疾患)から目を逸らしている」に過ぎない(別記「犯罪に関するよくある勘違い」参照)。

 

「衝動的に殺意が沸いても、犯行直前に死刑の可能性を考えて思い止まる人はいる」

突発的発作的な殺害の瞬間は、猛烈な快感或いは恐怖心に我を忘れ死刑はおろか逮捕すら頭にない。概して発想が偏狭で近視眼的になるので、己の死刑の可能性を考え始めるのは専ら殺害後か事件がバレた後か逮捕された後になる。

そもそも殺害しなければ死刑はないため、殺害前に真剣に「死刑が怖い」と慄く者はいない。つまり真に死刑に怯え始めるのは早くても殺害直後。「犯行前に本気で死刑を恐れない」ということは、抑止になっていないということ。

 

「仮に全ての刑罰を死刑にすれば犯罪は減る。これは死刑の抑止力の証明」

前半は正しい。軽犯罪においては厳罰化に(但し、一時的な)抑止or隠蔽効果があることは自明。しかし「軽犯も重犯も全く同じ心理状態下で為される」事は、一部の奇特なサイコパスやソシオパスを除いて現実には起こり得ない。

軽犯罪に死刑等の重罰が効くのは「軽犯罪を企図する者がそのメリットデメリット等に比較的正常な状況判断能力を有する」からである。正常な判断力に欠けた者は刑の軽重に関わらず、バレないと思い込むか処刑覚悟の上で犯罪するので抑止にならない。一般に刑罰の抑止効果は「比較的正常な判断が可能な者」には認められるが、精神異常・錯乱・洗脳状態の者に対しては期待できない。

 

「全く正常な精神で何の思い込みもなく故意に殺人する奇特な人間は、実在する」

実在するとしたらそれは正常ではない。矛盾するので実在しない。

 

「それでも正常な精神を持った故意殺犯は実在する」

正常な精神の持ち主は故意殺をしない(する必要が無い)ので、実在しない。いるとしてもフィクション。いると思っている人の頭の中にのみ存在する。

 

「故意殺犯の誰某は殺人時、正常な精神状態だった」

殺人している時点で正常とは言えない。未遂に終わったとしても、殺意を抱いている時点で正常ではない。尊厳死安楽死を実施した医者の話なら別問題。

 

「正常か異常かは行為によって決まるものではない」

行為でも状態でも決まるし、程度問題である。怒りは一時の狂気。ちょっとでもイライラした時点でそれは異常。別記「感情自己責任論」参照。

 

「正常な精神状態で蚊を殺す者は実在する。同様の状態で人間を殺す者も実在する」

蚊と人間の区別が付いていない時点で正常とは言えない。そもそも蚊と人間の区別すらつかない者は無期懲役と死刑の違いも分からないので、死刑は効かない。

 

「蚊を殺したら死刑、とすれば殆どの人は蚊を殺さなくなる。だから人を故意殺したら死刑、とすれば殆どの人は故意殺しなくなる」

前半は正しいが後半は拡大解釈。殆どの人は死刑が有っても無くても故意殺しないので、強いて「故意殺しないようになる」ことはない。寧ろ上述した通り故意殺を挑発するようなケースが増える。

 

「万引きを死刑にすれば万引きは減る。これは死刑に抑止力がある証拠」

前半は正しいが、後半は正しくは「これは死刑が一部の万引きに対して抑止力がある証拠」。却って「死刑になりたくて(させたくて)万引きする者」が増える。「殺人に対しても抑止力がある」とは言えない。

 

「万引きも殺人も同じ犯罪。だから万引きに効果がある死刑は殺人にも効果がある」

前半は正しいが後半は拡大解釈。同じ病気だからと言って虫歯と水虫に同じ予防法が効かないのと同じで、動機や目的や手段が異なる殺人にも効くとは言えない。「万引きに効くから殺人にも効く」という理屈は「歯を磨けば水虫にならない」と主張するようなもの。

 

「万引きと同じ動機と目的と手段で殺人する者は存在する」

現実には「万引きでは死刑にならないが殺人はなり得る」ということは誰でも知っており、その時点で同じ動機では為し得ない。

 

「万引きでは死刑にならないが殺人は死刑、ということを知らない者もいる」

いるとしても分別の付かない幼児か幼児並みの知性の持ち主くらいであり、この場合は幼児が殺人した場合と同じ事故扱いとなる(刑事責任が問えない)。実際、2歳児が0歳児を剃刀で殺傷した事例や園児が園児を突き飛ばして殺した事例があるが、いずれも事故扱いとなっている。

 

「万引きも殺人も同様に死刑になるようにすれば、殺人は減る」

もしそうなると、逃亡中の万引き犯が「死刑になりたくない」と立て篭もったり「どうせ死刑だ」と自棄糞になり捕まえようとする者を殺すなど凶悪化するので、殺人は増える。「万引きは死刑相当」という社会通念があると万引き犯を「どうせ死刑になる人間」と見て殺そうとする者も現れ、また無実の者に万引きの罪を被せて間接的殺人を図る者も増える。

一方、死刑志願者は万引きによって間接的自殺を図るので道連れ殺人(拡大自殺)は減るが、潜在的には死刑志願者よりも殺人願望者や万引き犯の方が圧倒的に数が多いので、結局は殺人が増えることになる。結局、厳罰化は治安を悪化させる。

 

「被告人の殆どは死刑を回避したがる。これは死刑の抑止力の証明」

警察・検察・刑務官、弁護士・宗教家等と対話し時間を経て冷静さを取り戻せば、一般人と同様に死を恐れるようになるのは自然なことであり、抑止力の根拠にならない。そもそも抑止が働いたところで「犯行後」では意味がない。

 

「拳銃を突き付けられたら殆どの犯罪者は犯行を止める。これは死刑の抑止力の証明」

犯行時に目の前に絞首台がある訳でもなく、拳銃のように死や痛みへの恐怖を直接的に連想させる力は死刑にはない。そもそも抑止が働いたところで「犯行後」では意味がない。なお、拳銃が抑止として働くのは拳銃の何たるかを学習した者だけ(赤ん坊に拳銃による脅しは効かない)。つまり抑止力は拳銃には内在しない。抑止するのは常に教育。

 

「拷問刑を導入したり公開処刑すれば犯罪抑止力になる」

免疫のない一般市民に一時的に自粛効果があっても、慣れると余興化する。そして「気に食わない者はああ扱えば良い」と全責任を犯罪者個人に転嫁する不寛容な風潮が蔓延し、社会を荒廃させ却って凶悪犯罪が増す。また仮に犯罪件数が減ったとしても、それが「より犯罪の隠蔽化・巧妙化が図られ認知件数が減った結果」である可能性を否定できない。

 

「死刑にしなければいつ再犯するか分からない」「死刑にすれば100%再犯することはない」

分からないなら安易に釈放しないように制度を改めればよい。そもそも将来の犯罪可能性を理由に処罰することはできない。死刑にすれば「生きて償い悔い改め更生すること」も100%できなくなる。この手の主張は具体的な未然防止策及び矯正手段に関する無知や怠慢の表れ。

 

「廃止すれば、三食屋根付き医療費タダの刑務所に入る為に殺人をする者が現れる」

越冬や堕胎を目的とした常習犯は実在するが、刑務所に入るのが目的なら窃盗や傷害等軽犯罪で可能。医療費無料も生活保護を受ければ実現でき、入所の為だけにわざわざ危険を冒して殺人する者はいない。また本人の意思に反して無理矢理出所させ保護司もつけないような制度でない限り、「何度も窃盗する手間を省く為の殺人」もあり得ない。

 

「死刑になりたいと殺人する者がいるから廃止するのなら、刑務所に入りたかったと犯罪する者がいるから刑務所を廃止すべきということになる」

前者の動機では殺人が起こり得るが、後者の目的を達成するためには軽犯罪で済み凶悪化しないので、社会的には寧ろプラス。セーフティネットの問題。

 

「愛知女性拉致殺害事件の川岸は死刑になりたくなかったから自首した。これは死刑の抑止力の証明」

裁判で本人は「命乞いの声が頭から離れない。今も夢に出る」「自分の車の中で殺人が起きた事が耐えられない」等と語っており、犯行後に罪悪感が募り良心の呵責に耐えかねての自首と考えるのが自然。「死刑になりたくないから」は供述調書作成時の警察や検察の詰問攻めを回避するためによく使われる言い訳で、鵜呑みにはできない。

本当に死刑を恐れたのなら、殺害後の時点では共犯者同士互いの素性すら知らないのだから、自分だけ行方を眩ませば良い(実際、本人は犯行当時「ネットは匿名だからバレない」と思っていたと供述)。そうしなかったのは「死刑回避以外の理由(誰かに止めて欲しかった等)がある」ということ。よしんば抑止が働いたとしてもそれが殺害後では抑止の意味が無い。

彼はその後メディアの取材に「自首は正直言って気の迷い。なんとなくが正しいかも。非常に疲れていていろいろ考えて電話した。善が少しだけ悪に勝った。死刑になりたくなかったからではないので悪しからず」等と述べている(勿論これも単なる虚勢の可能性があるが、犯罪心理の観点から一定の信憑性はある)。

なお川岸の逮捕自体も別の窃盗未遂の共犯者の逮捕で時間の問題だったため、彼らの次の殺人を防いだのは川岸の自首そのものよりも「殺害の実態を目の当たりにしたこと」「被害者が正しい暗証番号を教えなかった(結果、川岸の犯行意欲を削いだ)こと」にある。

また判決後「被害者は運が悪かっただけ。今でも悪い事はバレなきゃいいという気持ちは変わらない」と述べており、誰よりも死刑を身近に感じている筈の者にすら死刑が抑止にならないという証左になっている。

 

「18歳未満は死刑にならないからと犯行に及んだ者がいる。これは死刑の抑止力の証明」

犯行に及んでいる以上「死刑と少年法の両存在が殺害を誘発した」とは言えても「死刑が抑止した」とは言えない。本人が18歳以上になった時に年齢を理由に思い止まる確証も無く、仮に思い止まったとしても既述の通り抑止しているのは主に警察や司法権力。殺人の動機には怨恨や所有欲、恐怖回避など様々な背景があり、それらを差し置いて「死刑制度の不存在」が動機になることはない。

そもそも「18歳未満だから〜」という発言は、取調官らの「これ以上やったら死刑になる」「自分が死刑になると分かっていたら殺したか」「お前が大人なら死刑になるところだぞ」などの咎めに対する「奇を衒った知識自慢、歪んだ自己顕示欲の現れ、真の動機を誤魔化す為の虚勢」と見るのが自然。

その本心は「死刑にならないから殺人した、と豪語すれば自分に一目置くようになる」「下らんことを聞くなバ〜カ」「よく考えてから物を言え」「少年法くらい知ってますが何か?w」であり、言われた大人が目を丸くし口を噤むのを見て悦に入るのがオチ。

 

「名古屋アベック殺人事件では19歳のAが17歳のBに”お前は死刑にならないから”と言って殺人させた。これは死刑の抑止力の証明」

実際はA自身が実行犯で本人自身が逮捕直後に「未成年だからすぐ帰れる」と思っており、公判でも「(自分は)少年だから死刑にならない」と述べている。つまり抑止云々以前に少年法を熟知していない(実際、一審は死刑)。仮に殺人教唆が成立したとしても共同正犯で故意犯には違いなく、実行犯が変わるだけで殺害が起こっている以上「抑止力があった」とは言えない。

 

「少年を甘やかすから付け上がる。少年法を廃止すべき」「犯罪の低年齢化は由々しき事態」

時代錯誤な感情論。実際には十分に甘やかしていない(愛を与えていない)からこそ、非行(利他より利己を優先する行動)に走る。肉体年齢のみを根拠に、画一的に保護対象から外し責任を負わせることは、社会による責任放棄。

犯罪に手を染める者は元々精神年齢が低い者。精神が薄弱で自立心が乏しく簡単に洗脳されやすい若輩者ほど、犯罪する傾向が高くなる。寧ろ少年法の精神を全年齢に拡大適用し、年齢に関わらず死刑廃止した方が良い。

従来の「いい歳した大の大人が犯罪する社会」こそが異常であり、相対的に若年化が進むのは社会が成熟している証拠。これを「若者ほど殺人するようになった。世も末だ」などと憂いてみせる者は、本質を見る目のない世間知らずな偽善者。

 

「死刑に凶悪犯罪の抑止力が無いなら、それを廃止論者が証明すべき」

無い証明は上述の通りだが、本来、無い事を証明することは本質的に不可能(悪魔の証明)。立証責任は「抑止力がある」と主張する側にある。これまでのところ「抑止力がある」という科学的証明は、国連を始めとする世界中の研究機関・専門家・学識者にすら出来ておらず、「抑止力があるとは言えない」つまり事実上「抑止力は無い」が結論。

 

 

 

Ⅱ 殺人発生のメカニズムに関するよくある勘違い

 

HOME    TOP   

 

「自分が死刑にならないと分かっていれば、良心のタガが外れて殺人する者もいる」

その場合、殺人した原因は「良心のタガが外れたこと」であり、「死刑がないこと」ではない。良心のある人は自分が死刑にならないと分かっていても殺人しない。

 

「自分が死刑にならないと分かっていれば、殺す事に抵抗が無くなる者もいる」

その場合、殺人した原因は「抵抗が無くなったこと」にある。殺す事に抵抗のある人は自分が死刑にならないと分かっていても殺人しない。

 

「本人の良心のタガが外れたり抵抗が無くなったりしたのは、死刑が無い(無くなった)からだ」

その場合、殺人した原因は「殺人を躊躇う理由が無くなるほど自尊心を踏み躙られるようなことをされたこと」にある。踏み躙られても怯まない本物の自尊心を持った人は死刑が有ろうと無かろうと殺人しない。

 

「幾ら良心・自尊心を踏み躙られても殺人しないのが普通。その程度で殺人する方が悪い」

・・・と主張する者自身に「殺人を余儀なくされるほど自尊心を蹂躙された経験」が無いので想像力が働かないだけ。少なくとも殺人者当人にとっては相応の仕打ちを受けたと考えるのが妥当。

 

「どれほど酷い仕打ちを受けようと我慢するのが普通。殺人する方が悪い」

・・・と主張する者自身に「自分の我慢の限界を超える仕打ちを受けた経験」が無いために、もし自分が同じDNAを持ち全く同じ環境で育ったなら同じ人格に育ち同じ事件を起こしていた、ということに思いを馳せるだけの想像力が無いだけ。

 

「全く同じDNAを持ち同じ環境で育つのは双子でもない限りあり得ないので考えるだけ無駄」「仮に自分なら絶対に殺人しなかった」

・・・と主張する者自身に想像力が無い。このように想像力が欠如した者が犯罪者を含め存在すること自体、現行の教育制度・社会システムに問題がある証拠。

 

「殺人をしたのは殺人者本人の責任。環境や社会のせいにするのは筋違い」

どんな事情があろうと「殺人行為の原因」は100%殺人者にある。しかし「殺人犯の精神異常を放置した原因」「犯罪を未然防止できなかった原因」等は地域社会にもある。問題の本質から目を逸らし一個人に矮小化し続ければ、社会は学ばず似たような事件が起き続ける。犯罪は社会の鏡。

 

「殺人犯を生んだのは親の責任。社会のせいにするのは筋違い」

子は親の鏡だが社会の宝でもある。親だけではなく学校・地域社会・国家にも、殺人犯を育てた責任がある。犯罪とは、指導力の欠けた教師を雇用し知恵よりも知識を優先し大人にとって都合のいい社会通念を押しつけ全人格的な心の教育を怠ってきたツケ。何度も似たような事件が起こるのは、社会が問題の本質から目を逸らし一個人に責任転嫁し続けているせい。

 

「誰もが平等に十分な教育を受けている。能力が無いのは教育の不備のせいではなく、本人の資質の問題」

十分でないから犯罪が起こる。先天的に能力がない場合は、その本人の資質の問題を放置し野放しにしていることが制度上の欠陥。後天的に能力が無いのは教育の不備。

従来の教育制度は、画一的で知識偏重・知恵軽視で経済界・産業界に直接寄与する(即戦力となる)教科ばかり重視し、道徳や人格形成に割く時間が少なくまたその内容も綺麗事を並べるだけの低水準なレベルに留まっており、個々人に適した教育を施しているとは言えない。

その結果、人生哲学が浅薄で論理的思考能力に欠けた頭でっかちや、己の感情を他人のせいにして憚らない自己中心的な大人が量産されている。一連のオウム真理教事件その他の犯罪はその表れ。

既存の教育の在り方に何ら改善の余地は無いと思い込んでいる者がいること自体が、改善の余地がある証拠。因みに、教育が不十分で精神的に未熟な者が多い社会ほど、人々が見掛けの美醜や第一印象の影響を受けやすいため、所謂「犯罪者顔」が生まれる。

 

「教育を改めよというのは理想論。予算も時間も無い国に万人の面倒を逐一看れるわけがない」

ならば国家がその責任を取れるようになるまで、個人に責任転嫁する死刑は停止するのが筋。

 

「幾ら教育制度を充実させても、反社会性人格障害者は現れ殺人は起こり得る。防ぎようが無い」

殺人が起こるのは、教育制度に欠陥がある(充実できてない)何よりの証拠。個人のせいにすれば社会が、その内含する欠陥を省みなくなり、問題解決が先送りされ新たな被害者を生む。

 

「加藤元死刑囚が秋葉原で通り魔したのは派遣労働者だったから。格差社会が原因」

当時の彼にとって掲示板は自分の存在を認めて貰える唯一の居場所。動機は「別人になりすましをされ荒らされたため、自分が本物であることを掲示板の住人に事件を通して知らしめたかったから」、つまりは彼自身の精神的未熟が原因。

仮に彼が「派遣だったことが負い目で犯行に及んだ」と語ったとしても、それもまた犯行の原因ではなく単なる口実・言訳である。どれほど格差があろうと犯罪しない人はしない。差別や格差は一切、如何なる犯罪の原因にもならない。「目に見える分かりやすい何か」のせいにしたがるのは、原因帰属バイアスの一種。

 

「彼が通り魔したのは掲示板を荒らされたから。荒らしが原因」

荒らしは「通り魔の原因」ではなく「通り魔の口実・言訳」。どれほど荒らされなりすまされても「それも表現の自由」と全く気にせず動じない者もいるので、荒らしは原因ではない。「行為者の心の病・未熟さ」が常に唯一の全ての犯罪行為の原因。

 

「動機は原因」

動機・理由は主観で、原因は客観。主観を鵜呑みにして客観化しても問題の本質は見えてこない。別記「人権に関するよくある勘違い」参照。

 

「幾ら荒らしても通り魔の原因ではないのだから、今後も変な奴がいたら荒らして良い」

「通り魔の原因」ではなくても、少なくとも「彼に通り魔を誘発した原因」。「掲示板を荒らしてなくても彼は通り魔した」ということを証明できない限り、荒らしが通り魔を誘発したことは否定できない。荒らさずにいれば通り魔に至らなかった可能性がある以上、荒らした者は道義的責任を免れ得ない。

 

「また通り魔する馬鹿が出てくると面白いから、今後も変な奴がいたら荒らし続けよっとw」

そう主張する者もまた精神を病んでいるので、教育・治療の対象。現行の教育に不備があるからこそ、人格の未形成な者が生まれる。

 

「親の教育が悪いから通り魔した。通り魔の原因は親の教育にもある」

親の教育にあるのは「通り魔の原因」ではなく「子供の人格を未熟なままにした原因」。どんな犯罪も、その原因は常に唯一、犯罪者の「心の狭さ・精神的未熟さ」であり他にはない。なお、彼の両親がそのような教育素人に育ったのも低水準教育が原因。現行の公教育が劣悪な私教育の機能不全を補完できていない証拠。

 

「どれほど劣悪な教育環境で育っても、通り魔しない者はしない。だから環境は原因ではない」

環境は「通り魔の原因」ではないが、「彼を通り魔しやすい人格にした原因」である。子供は親の躾け方次第でどうにでも育つので、その個性に応じた最凶極悪な環境を与えれば冷酷無比で極悪非道な子供に育てることは幾らでも可能。どんな人間も、相応の環境で育成され条件が整えば犯罪者になる可能性がある。体験から何も学ばなければ似たような経験を繰り返すのは、個人も集団も同じ。

 

 

 

Ⅲ 贖罪・社会正義・終身刑に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP   

 

「命には命を以て償うべき(命は命でしか償えない)」

命は命でも償えない。「死が償いになる」という価値観は死を美徳化した自己満足。3000年以上前のハムラビ法典「目には目を」同様、安直で時代錯誤な綺麗事。「死んでお詫びを」「死ねば許される・報われる」は、責任追及や非難糾弾される屈辱・生き恥を晒す苦痛や、憎い相手を殺せないジレンマ等からの現実逃避・甘え。

「自分の命で代償が効く」という死生観は、裏を返せば「死刑になる覚悟があるなら殺人して良い」というテロリズム。人命よりプライドを尊重するのは民度が低い証拠。

 

「自分なら罪を悔いて自殺する。加害者が自殺しないのは反省してない証拠」

自殺は、自責の念による苦悩から逃れ自分だけ楽になるためのエゴ。死んだところで贖罪できない。

 

「何をしても償いにならないのだから死ぬしかない」

「何をしても償えない」なら死んでも償えない。「具体的に何をしたら償いになるか」に普遍的な答えは無く、定量化もできない。しかし少なくとも、加害者が心底から反省し改心し後悔し遺族に謝罪し立ち直り更生し自分の経験を社会に還元し、その結果「新たな被害者を生まないこと」に繋がればそれは償いの一種と言えなくもない。

 

「人命より社会正義を優先すべき」

正義は相対的な概念に過ぎず、生命は客観的実在。正義(主観)を人命(客観)より優先するのは、絶対的正義があると思い込んでいる無垢な子供やテロリストと同じく善悪観念が未熟な証拠。

 

「絶対的な正義は存在する」

存在しない。正誤、善悪も相対概念。詳細は別記「哲学・因果応報〜に関するよくある勘違い」参照。

 

「死刑には生命の尊厳に対する教育的効果がある」

死刑制度を持つ国家は「理由があれば殺人も正当化される」という価値観を容認している一集団。「理由があれば殺人OK」は殺人犯やテロリストとも共通する思想であり、人命を尊んでいるとは言えない。「人を殺すな」と国民に教える国家が死刑で人を殺すのは矛盾以外の何ものでもない。

「都合の悪い存在を抹殺したがる国家」はその反映として「都合の悪い存在を抹殺したがる犯罪者」を生む。国家が率先して自国民に対し「如何なる理由があろうと人命を奪う権利はない」と規範を示してこそ、教育的効果が図れる。

 

「被害者の人命を侵害した加害者の人命を国家が侵害するのは当然。それをしないことは被害者の人命を蔑ろにしているに等しい」

加害者が殺人したからと言って、同じ愚行を国家が犯して良いという理屈にはならない。加害者の命を奪えば被害者の償いになるという発想こそ、被害者の人命軽視であり冒涜。

 

「死刑に処するのが国家の責任」「死ぬまで凶悪犯の面倒を見るのは税金の無駄」

更生するまで凶悪犯の面倒を見るのが、犯罪者を生んだ国家の責任。死刑は、凶悪事件を未然防止できなかった国家による「臭いモノに蓋」式の責任逃れ。国家の義務は「自分たちの怠慢がその犯罪者を生んだ」以上、あらゆる手を尽くして加害者の更生を促し、二度と新たな被害者を生まないよう処置すること。

加害者は言わば一次被害者。犯行に至るほどの状況に陥る前にこの一次被害者を救えていれば、二次被害者は生じない。二次被害者のみを救おうとするのは偽善。

 

「死刑は殺人とは次元が違う」「国家が行う死刑と個人やグループが行う殺人は本質的に異なる」

死刑は言わば国家という一集団による自称合法殺人行為。その本質は個人や小集団が行う私刑(殺人・集団リンチ)と同じ。「小・中集団が決めたことはNGだが大集団が決めた事はOK」は、「寄らば大樹」「長い物に巻かれろ」と同じ多数論証という名の詭弁。集団の規模や賛同者の多寡では正誤や善悪は決まらない。手続きが複雑なら複雑なほど正義、にもならない。

 

「国による合法殺人を禁止すべきなら、国による合法拉致・合法監禁つまり逮捕・拘束も禁止すべき」

拡大解釈が高じた極論。死刑廃止論は刑罰廃止論ではない。警察権力や罰則が犯罪抑止になる事は科学的にも根拠があるので無くす理由がない。既存の死刑廃止国家でも刑罰全てを廃止している国はない。

 

「死刑廃止と同時に終身刑を導入すべき」

終身刑は、無期懲役の仮釈放基準を厳格化することで実質的に実現可能。死刑同様、「更生不能と断定する矛盾」を前提としているため、ドイツのようにいずれは廃止されるのがオチ。

 

「死刑制度を維持したまま、社会からの死刑相当罪の撲滅を目指すべき」

理想論。現実には凶悪事件は一朝一夕には無くならず、撲滅するまでの間、誰かが「死刑志願者による無差別殺人」「冤罪による死刑」の犠牲者になる。

 

「死刑は終身刑よりコストが下がり税金の節約になる」

終身刑よりも死刑の方が上告・再審請求が多くなるため、裁判が長期化し訴訟費が増大する。複数で入る一般房より死刑囚用独居房の方が維持管理費も割高。死刑執行に必要な設備費・人件費などを考慮すると、懲役を科して生産的技術も身に付けられる終身刑の方がトータルで安上がりになる。現に米ニュージャージー州のようにコスト高を理由に死刑を廃止した国や地域もある。

長い目で見れば、冒頭で示したように「死刑の存在が人々の心を荒廃させる」ので、それが引き起こす凶悪事件によって被害者の増加、裁判・刑務所増加、警察権力の拡充、即ち税負担増に繋がる。

 

「廃止した為に起こる凶悪事件に関わる裁判費用と終身刑囚の養育費と被害者救済等、コスト一切を死刑廃止論者が負担するなら、廃止しても良い」

既述の通り「廃止したことが原因の凶悪犯罪」は起こり得ないので、負担額は永久に0円。なお存置しているために起こる拡大自殺によるコスト一切は既に国民の負担。犯罪者を生んだのは社会の責任なので当然の帰着ではある。

 

「無期懲役は平均20年で出所する」

近年は以前より出所基準が厳しくなり、平均で30年超。仮出所できるのは一部の模範囚のみで殆どは獄死、つまり既に実質終身刑化している。

 

「死刑囚は処刑後、臓器移植させればよい」「死刑囚は人体実験してから死刑にすれば良い。最後に世の中に役立つ」

死刑囚本人が望めば献体は可能で、実際に「医学の発展の為」と献体した者もいる。しかし絞首刑では脳死状態にならないため、角膜や腎臓以外の「脳死状態でないと移植できない臓器」は移植不可。21世紀初頭の現時点では死刑執行後に脳死判定するための装置も法整備も為されてない。罪人になっている時点で、既に「ある種の人体実験」を受けている。

 

「死刑囚に地雷除去や放射能汚染区域での作業をさせれば良い。一定以上働いたら恩赦」

地雷除去の技術や作業手順を教える為の訓練に時間が掛かる(習得できるかも怪しい)。地雷や放射性物質を自他殺に使う危険性が付き纏うので、監視監督の手間暇を考えると不経済。

 

 

 

Ⅳ 厳罰化・更生その他に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP  

 

「加害者には被害者と同じ苦しみを味わわせるべき」「拷問刑を導入すべき」

犯罪者は幼少期より環境に恵まれず相応の辛酸を舐めたからこそ、その苦痛から解放される為に罪を犯す。生に苦痛を感じる死刑志願者にとって死刑は無期懲役の減刑であり安楽死のようなもの。苦しみに耐えきれず殺人に至った不幸者に更に苦痛を与えることは、その苦悩を想像出来ない者による報復感情の満足・ストレス発散。

凶悪犯は、その罪を犯さなければならないほどの不遇を背負い込み精神を病んだ哀れな一次被害者。社会が一次被害者の苦しみに無理解・無関心だったことが、二次被害者が生じた要因の一つ。よってこれ以上の苦しみを与える必要はない。

 

「遺族が死刑を望むのは当然」「廃止すれば被害者やその家族の気持ちが治まらない」

憎い相手の死を願うのは殺人犯の異常心理にも通じており、同情こそすれ肯定はできない。憎しみは自然であっても必然ではない。そもそも身内の不幸に怒り嘆くのは「自分の身内だけは大丈夫」という自己中な思い込み驕り傲慢エゴに起因するしっぺ返しであり自業自得。

「加害者に怒りをぶつける権利」「加害者にとことん事情を聞く権利」「加害者から謝罪される権利」「加害者の更生を見届ける権利」を訴え、生きて償って欲しいと願う遺族もいる。対話を重ねることで囚人が更生し遺族共々心のケアを図れたケースもあり、死刑はその可能性を奪うことにもなる。

死刑は報復のための道具ではない。殺人犯の99%が死刑にならない現状では、遺族感情に十分に配慮した裁判制度や精神的ケア・経済的支援を図る体制の確立を優先すべき。死刑があることによって却ってこれらの法的整備が遅れる。

 

「死刑が無くなれば憎悪を募らせた遺族による復讐や私刑が増える」

その執行者を捕らえるまで。「思い通りにならないなら自ら手を下す」という発想は殺人犯と変わらない。

 

「死刑が無くなれば警官による現場での射殺が増える」

麻酔銃・催涙弾・スタンガン・閃光弾・ネットランチャー・ゴム弾などの非致死性兵器や交渉術などの犯人捕獲の選択肢が増えている現状にあって、射殺が増える道理はない。現場にピストルしかなくても両肘両膝を撃てば凶悪犯の行動を封じることは可能。強引な射殺が増えるとしたら、死刑の是非の問題ではなく警察官の取り締まりの在り方の問題。

 

「フランスは死刑は野蛮だと言うが、現場で凶悪犯を警官が射殺するフランスの方がよほど野蛮だ」

警察官が緊急避難や自己防衛のために暴漢を射殺するのは日本も同じで、正当防衛であれば止むを得ない。死刑も射殺も「殺せば一件落着」という発想なので野蛮であることに変わりはない。

 

「本人が死刑を望んでいるなら死刑にすれば良い」「寧ろ死刑にするのが救済」

希死念慮・自死願望は精神疾患。心の病を治すことを優先すべき。「殺せば解決」は問題解決力の乏しい者の偽善。自殺幇助と同じで、真の解決を遠ざける非情な愚考。それが救済になるという発想は、原理主義者のテロやオウム真理教のポアなどと同じ宗教的妄想。

 

「死刑になりたくなければ殺さなければいい。殺したのだから死刑になってもしょうがない」

殺人に至った不幸者の境遇や背景に思いが至らない幸福者の、安直な現実逃避。逆に「死刑になりたければ殺せばいい」という誤ったメッセージになり兼ねない。

 

「確定後半年以内に死刑執行しないのは刑訴法475条違反」「法務大臣がサインしないのは職務怠慢」

同条但し書きにあるとおり、全ての死刑に当て嵌まるものではない。6か月では短過ぎるとの現場の声も多く、既に「法的拘束力のない訓示規定」との東京地裁判決も出ている。法相による執行是非の判断は、冤罪を訴える立場からすれば最後の砦。司法判決と行政判断は別。機械的執行こそ怠慢。

 

「人は変わらない。凶悪犯罪者に矯正は不可能」

自分を変えることが困難な者による自己投影。

 

「更生の余地がない以上生かしても無駄」

人は何歳になっても陶冶(とうや)性はある。更生の余地の有無やいつ何時何をきっかけに改悛するかは本人ですら分からない。それを赤の他人が分かるというのは傲慢。刑務所内で改心し勉学に励み年月を経て、犯罪当時とはまるで人が変わったようになり、前科の無い一般人よりも危険でなくなった死刑囚も実在する。最早危険でない者を過去に危険だったからという理由で殺すのは愚の骨頂。

可能性が0でない限りあらゆる手段を講じて反省を促し、その経緯結果を反映させ、より充実した更生プログラムを作って後世に伝え、現代医学で手の施しようのない先天的脳障害等があればその治療法の確立を図るよう努力する。そうして二度と同じ事件を繰り返さない(将来の被害者を生まない)ことこそ、被害者の死を無駄にしないことに繋がる。

 

「改悛したからどうした。遺族はそんなものを望んでない。死んで償え」

その恨み辛みは犯行時の犯人が抱いていた病的心理と同質で、憐憫こそすれ首肯はできない。このような感情論は、遺族の精神的ケアが如何に蔑ろにされているか、如何に現行教育内容が薄っぺらいかを物語っている。

 

「社会不適合者は社会から抹殺すべき」

抹殺の前にまずは「矯正すべき」であり、それを怠り楽をしようとする発想は殺人犯と瓜二つ。この手の矛盾した情緒論を肯定する者が多い社会では、その反映として殺人が多くなる。

 

「理性が利かない猛獣と同じ。殺処分すべき」

街中に猛獣が逃げても余程の緊急時でない限り麻酔銃等で対処し檻に入れて監視すれば良く、殺すことは必須ではない。人間が獣に見えるのは理性を失った者の自己投影。

 

「今にも人質を殺そうとしている緊急時なら警察が銃殺してOK」

肩や腕などを狙えば必要最小限の対処で無力化は可能で、銃殺を目的にするのは間違い。無力化できない・銃殺以外に手がないとしたら警察の準備不足・怠慢。

 

「1人しか殺してないのに死刑になるのはおかしい」

死刑は殺した人数で決まらない。法理上は殺人していなくても死刑になり得る(放火や外患誘致など)。

 

「3人も殺しているのに無罪になるのはおかしい」

まず「殺しているのに」という前提がおかしい。被疑者・被告人・有罪確定者・受刑者・囚人はいずれも「真犯人」とは限らない。犯行現場にいた者にすら、真実は断片的にしか分からない。それなりの権力があれば冤罪は人為的に作り出せるので、仮に現行犯で本人が犯行を認めていても真犯人が他にいる確率は0ではない。

疑わしきは罰せず。無罪になったのは少なくとも合理的に疑う余地があるからで、証拠資料等を万遍なく精査した裁判官ですら判明出来ないことを第三者が分かるというのは傲慢。

 

「何の落ち度もない被害者がかわいそう」

偽善。「何の落ち度もない」はマスコミや裁判官が理不尽さを強調するために多用する綺麗事。被害者に文字通り何の落ち度もないのは稀。多くの場合、その過程で加害者に何らかの排他的な冷遇をする等して恨みを買っている。尤も、そうした被害者の非や落ち度は犯行の理由にならない。どんな理由があろうと殺人行為の原因は殺人者に100%ある。

 

「国の命令とはいえ死刑執行をやらざるを得ない刑務官がかわいそう」

職業選択の自由。職責を果たすのが嫌なら辞めれば良い。そもそも仕事内容は就職前に把握して然るべき。人の死を見たくて刑務官になる者も中にはいる。

 

「殺人などの凶悪事件は永遠に無くならない。無くそうとしても無駄」

社会が未熟なうちは無くならないが、十分に成熟して人々の総体的な精神年齢が高まり教育内容が充実しセーフティネットも不備なく確立すれば、全ての殺人は殺人に至る前に防げる。防げなかったとすれば、教育を含む何らかの制度上の不備・欠陥があったということ。

今も尚、名もなき人々の不断の努力により犯罪に至る前に解決している事例は、ニュースにならないだけで既に世界中で起きている。無くならないと主張する悲観主義者は、そうした事実に思いを馳せるだけの知識と想像力が欠如している。

 

 

 

Ⅴ 冤罪に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP  

 

「死刑を廃止しても冤罪は無くならない。だから冤罪は死刑廃止の理由にならない」

死刑廃止によって無くそうとしているのは「冤罪」ではなく「冤罪による死刑」。「冤罪者の死刑」は死刑廃止の大きな理由の一つ。実際、イギリスのエヴァンス事件等のように冤罪の発覚を機に廃止した国もある。

 

「冤罪そのものを無くせば冤罪による死刑もなくなる。死刑廃止は必須ではない」

理想論。人間は思い込みをしミスをする動物であり、制度上冤罪を完全に無くすことは不可能。だが死刑を廃止すれば少なくとも「冤罪死刑」は0にできる。

 

「冤罪は死刑でなくても起こる。取り返しがつかないのは命だけではなく時間も同じ」

これは「冤罪をなくそう」という議論にはなっても死刑制度を存置する理由にはならない。何故なら、死刑廃止で実現しようとしているのは「冤罪死刑を0にする事」だからである。

時間はあればまだやり直しが利くが、命は無くなれば二度とやり直しが利かない。命あってこその時間。時間(自由刑)と命(生命刑)を同列に扱うのは暴論。

 

「現行犯で本人も認めており証拠も揃っている。冤罪は100%あり得ない」

どれ程慎重にやっても、人間がやる以上、誤認逮捕や誤審は防げない。警察官も検察官も人の子。遺族の無念を晴らしたいという正義感故の思い込みや慢心、功名心、或いは「検挙率を下げたくない」「今更誤認逮捕を認めたくない」「面倒な事はさっさと処理して家に帰ってシャワー浴びてビール飲んで寛ぎたい」等の怠惰や自己保身から、証拠隠滅や捏造をする。

金と権力があれば、証拠を捏造して無実の人間を有罪に仕立てたり死刑直前に人間を差し替えたりすることは不可能ではない。死刑台に立っている人間が真犯人かどうかは神のみぞ知る。それを分かるというのは傲慢。

 

「死刑が関わるような重罪事件では、慎重の上にも慎重に捜査し審議するから冤罪は起こり得ない」「死刑がある方がより慎重に審判するようになる」

これは「死刑がなければ慎重に審判しない」と言ってるようなもの。死刑があろうとなかろうと審判は慎重に執り行って然るべき。また「ここで自白しないと死刑になるぞ」と取り調べる側が脅しに使うケースもあり、死刑があると却って冤罪を招く。

 

「幾ら刑事や検事に怒鳴られ机を蹴られようと、やってないのに自白する方がおかしい。冤罪も自業自得」

密室で長時間身柄を拘束され精神的に追い込まれれば、知的障害者でなくても「嘘を言ってでも楽になりたい」と考えるようになる。意志の強さには個人差があり、「自分にはできる。できないのが悪い」と断ずるのは傲慢。犯罪行為に対しても同様で、「自分なら我慢した。我慢できないのが悪い」と安易に批判するのは、当人の立場や心情に対する想像力が欠けた者だけ。

 

「可視化すれば、取調官が自由に物を言えず相手を説諭できなくなり反省や自白を促せなくなる」

公開すべきでない個人情報やプライバシーは、予め伏せるなど対処すれば良いだけのこと。見られたくないという心理が働くのは誇りを持って仕事をしていない証拠。

 

「気の毒だが冤罪は必要悪。犠牲はつきもの」

そう思っている人が多いから冤罪が無くならない。「必要悪」は解決できない者による逃げ口上。この主張者は、自分が冤罪になる可能性を忘れている。

 

「容疑者をすぐ犯人に見立てるのは、警察や検察寄りの報道をするマスコミの在り方にも問題がある」

心あるメディアはきちんと容疑者側の言い分も紹介する。容疑者を犯人扱いするとすれば、多くは受け手のメディアリテラシーの問題。

 

 

 

Ⅵ 死刑廃止論に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP  

 

「廃止論者の法相が死刑執行した。言うこととやることが矛盾している」

思想信条などの私情と法規順守などの公務・大臣としての職責は別、という現実主義的な立場を取っているに過ぎない。廃止論も色々。「廃止論者なら死刑執行しない筈」というステレオタイプこそ矛盾。

 

「廃止派は、家族が殺されたら簡単に存置派に寝返る」

寝返るとしたら似非廃止派。喩え愛する家族を目の前で八つ裂きにされても、そんな蛮行に及ばざるを得なかった加害者の生い立ちや境遇を思いやるのが、真の廃止派。勿論だからといって目の前の犯行を止めない・未然防止策を取らないということではない。罪を犯させないようすることが何よりも加害者の為になる。

 

「元日弁連副会長の岡村勲氏は、妻を殺され廃止論から存置論に鞍替えした」

TVドラマの脚色や「人権派弁護士=廃止論者」というステレオタイプが生んだ都市伝説。岡村氏は自称元人権派であって元廃止論者ではない。また日弁連も、廃止論者でなければ役員に就けないほど閉鎖的な団体ではない。彼自身、当事者になって初めて「被害者や遺族の悲惨さを知った」と述べており(全国犯罪被害者の会HP)、その想像力の乏しさは人権派としても未熟。

 

「愛する家族を奪われても犯人を恨まない死刑廃止論者は、人の心がない」

人の心とは「如何に理解不能な相手であってもその存在を許すことの出来る寛容な心」のこと。犯罪者や多くの存置派に共通する「憎い相手は排除すれば良い」という不寛容な獣のような心こそ、人の心ならぬ獣の心に近い。存置派は得てして家族の概念も狭い。血縁関係の深い者しか愛せないのはエゴ。相反する相手に心がないように見えるのは、己に心が欠けている証(人は鏡)。

現代社会ではいつ何が起こるかは誰にも分からない。犯人を憎まない人は「罪を憎んで人を憎まず」「人を呪わば穴二つ」「物事は全て必然。意味のないことは起こらない」の意味を理解し、日頃から「己のエゴに執着せず、いつ死んでも悔いのない生き方」を実践しているだけ。

 

「死刑廃止論者は被害者に対する想像力がない」

死刑推進派に加害者への想像力がないために、そう見えるだけ。心理学でいう「自己投影」、形而上学でいう「人は鏡」、俗にいう「ブーメラン」。

 

「これ(殺人現場の動画URL)を見ても死刑に反対する者は、脳内がお花畑」

殺人とはそもそもそういうもの。この程度の現実すら知らずに動画を見たショックから感情的になって死刑を推進する者の方が、よほど平和ボケした脳内お花畑(人は鏡、ブーメラン)。

 

「万一私があなた方を殺してもあなた方は私を殺すな、という廃止論の理屈は理不尽」

その理屈は既に業務上過失致死等で法制化されている。誰もが等しくその条件下にあれば理不尽ではない。この主張は恐らく、殺人犯の1%しか死刑に処せられない実態も知らない。

 

「廃止論者は偽善者」

自己投影。殆どの廃止論は合目的的で合理主義。寧ろ幼稚な善悪二元論を振り翳し被害者の立場のみに立って「こんなにも加害者に憤怒し被害者を庇う私は遵法精神が高く正義感溢れる心優しい真人間」と善人アピールする存置派こそ、偽善者。殺人犯に対し「なんて思いやりのない奴だ」と批判する者は、その批判を「殺人犯を思いやれてない己」に向けるべき(人は鏡、ブーメラン)。

 

「廃止論は宗教」

このページで指摘している通り、存置派の主張は己の処罰感情を優先して同害報復を是認するなど、矛盾が多い。論理的整合性が無いにも関わらず「それでも抑止力はある」「存置すべき」「殺すしかない」と思い込むのは現実逃避であり、それこそ一種の宗教(存置論ならぬ存置教)。そんな存置教信者だからこそ、「廃止論は宗教」と主張する(自己投影、人は鏡、ブーメラン)。

 

「廃止論の背景にはキリスト教がある」

聖書には死刑や虐殺や体罰を奨励する記述が何度も出てくる。処罰を咎めるキリストの言説は聖書の中の極一部。事実、キリスト教は「史上最多の異教徒・異端者を神の名の下に惨殺してきた世界最大のカルト」で、元々廃止論とは相容れない。廃止論の背景にあるのは啓蒙思想の普及とそれに伴う人権意識の高まり。近代になって教会が信者獲得と人道的見地のためにそれに追従しているだけ。

 

「廃止論者はキチガイ」「廃止論者は自身や仲間を死刑にしたくないから廃止を主張する犯罪予備軍」

自己投影による同属嫌悪。実際にはこのような「安直で都合のいい解釈」を好む者の中にこそ、犯罪予備軍が多い。彼らが積極的に廃止論者や犯罪者や弁護士を批判・非難し「自分は犯罪者とは異なる(対極に位置する)」とアピールするのは、心の奥底にある「犯罪者と同質同類の自己」を否定し、精神安定を図るため。

 

「ドラえもんが助けてくれると思ったなどという荒唐無稽な言い逃れを述べる弁護士は頭がおかしい」

ドラえもん云々が虚偽か真実かは被告人本人しか知り得ない。「今まで言わなかったのはとても信じて貰えないだろうと思い黙っていたから」とすれば、後から言い出した理由も通る。

如何に奇想天外で「そんな主張は通用しない。却って裁判官の心象を悪くする」等と助言をしても尚、被告人が食い下がれば、その意向を最大限に汲み取るのが弁護士の職務。必ずしも全ての弁護団が勝手に創作したり被告人の言い訳を鵜呑みにしている訳ではない。

寧ろ裁判官でも被害者遺族でもない暇な第三者ほど、「犯罪者の異常性を殊更センセーショナルに煽り立てて購買意欲を引きたがる週刊誌」等のゴシップ記事を鵜呑みにする。

 

「死刑制度に賛成している国民は2009年の政府調査で85%もいる」

85%は「場合によっては死刑もやむを得ない」という消極的賛成派を含み、全員が無条件積極的に賛成しているわけではない。85%のうち「状況が変われば廃止しても良い」が34.2%で「将来も廃止しない」は60.4%。従って基準を変えれば次のようになる(以下、廃止容認派には廃止すべき派を加算)。

(以下、数値は内閣府世論調査 基本的法制度に関する世論調査より https://survey.gov-online.go.jp/index-all.html)

       調査年      廃止反対派         廃止容認派 

  1994年(平成 6年) 73.8*53.2/100≒39%  73.8*39.6/100+13.6≒43% 

  1999年(平成11年) 79.3*56.5/100≒45%  79.3*37.8/100+ 8.8≒39% 

  2004年(平成16年) 81.4*61.7/100≒50%  81.4*31.8/100+ 6.0≒32% 

  2009年(平成21年) 85.6*60.4/100≒52%  85.6*34.2/100+ 5.7≒35% 

  2014年(平成26年) 80.3*57.5/100≒46%  80.3*40.5/100+ 9.7≒42% 

  2019年(令和元年) 80.8*54.4/100≒44%  80.8*39.9/100+ 9.0≒41% 

  2024年(令和 6年) 結果待ち         結果待ち

なお、高学歴者ほど死刑反対を支持する割合が高くなり、調査対象を社会学・犯罪学等の専門家や裁判官・弁護士等の専門職に限れば、更にその傾向が強くなる。現場・実情をよく知る識者・専門家とそうでない大衆のいずれの判断を重視すべきかは言うまでもない。

 

「消極的であれ賛成派は年々増えている。だから存置することは正しい」

多数論証。殆どの国民にとって死刑制度は自分とは無縁なので、その存在意義について深刻に考えない。政情が安定すれば投票率が下がるのと同じで、現状維持派が多くなるのはそれだけ社会が安泰している証拠でもある。

平和になるほど、非日常的で理不尽で動機の分かり難い稀有で奇怪な事件に注目が集まるようになり、メディアは視聴率・販売実績を上げるためにその残忍さ・異常さ・非常識ぶりを強調した演出をしたがる。その結果、体感治安は悪化し凶悪犯への憎悪が募り、安直に死刑を維持したがる人は増える。

戦後暫く廃止派が多かったのは、当時の日本人にまだ戦中の治安維持法等の圧政に対する記憶が生々しく反体制思想に勢いがあったため。当時の廃止派が廃止論を理性的合理的に理解していたかどうかは疑問が残る。いずれにせよ民度が高まれば廃止派は増え、推進派は減る。

 

「人口の多い大国ほど存置し、少ない小国ほど廃止している。多い方が正しい」

民度が低い国ほど「人口=国力」と短絡発想し(or他に娯楽がないため)子作りに勤しむので人口が増え、また人口が多いほど国をまとめるためにより強大な国家権力を必要とする。為政者は有権者よりも学識/見識が比較的高いので、人口数よりも国家数を基準にした方が間違いは少ない。「識字率や教養が低い大衆」の数を基準にしたがるのは、本人の知的水準がそれに近い証拠。

 

「死刑廃止は時代の趨勢。EUを始め世界各国が死刑廃止しているのだから日本も死刑廃止すべき」

これも多数論証。大切なのは「何故廃止しているのか」であって、単純に「他国が廃止しているから」「国連が要請するから」という迎合主義的理由で決めるべき問題ではない。

 

「平安時代に既に日本は死刑を廃止していた」

時の政府が「死者の呪い・祟り」を恐れて一時的に執行停止していただけ。

 

「残酷だから止めるべき」「残酷でないから続けるべき」

何が残酷かは主観による。曖昧な基準は理由にならない。殺人は全て残酷なもの。残酷でないならゴールデンタイムに絞首をTVで生放送すれば良い。

 

「死んだら閻魔様に裁かれるのだから何も現世で殺さなくても」

こうした個人的宗教観で廃止論を述べても説得力は無い。このような非科学的な主張をする人物が「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長であるうちは、死刑廃止は実現しない。

 

「復讐するは我にあり、と神は言った。人を裁けるのは神だけ。人は人を裁いてはならないから死刑廃止すべき」

裁いてならないのなら裁判所そのものを無くさなければならないが、少なくとも現時点においては現実的でない。そもそも科学的根拠のない宗教観を基に論じるべきではない。

 

 

「検討中考案中調査中思索中勉強中休憩中企画中差戻中考え中却下中検索中思案中閃き中募集中待機中」

HOME    TOP