戦争に関するよくある勘違い

 

Ⅰ 太平洋戦争   ※定義上「正しい戦争」は存在しない(+.+)

Ⅱ 外交問題    ※デモや暴動は集団ヒステリーԅ(¯﹃¯ԅ)

Ⅲ 核武装論    ※被爆国だから核武装する権利が、は論理的に間違い(∩∩*)

Ⅳ 軍隊      ※軍隊があるから戦争/平和、も論理的に間違い(゜□゜)

Ⅴ その他戦争論  ※戦争は無くならない、も論理的に間違い(∵)

 

 

Ⅰ 太平洋戦争

 

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「太平洋戦争は回避出来なかった。やむを得なかった」

真珠湾攻撃は、当時の日本政府と軍上層部の「無知と独善と早合点と傲慢と楽観と誤算と勇み足と勘違いと外交力の未熟さ」が生んだ世紀の大チョンボで、一種の外患誘致。原油や機械類の殆どを依存していた米国と敵対するのは正気ではない。ABCD包囲網は身から出た錆。非公式メモのハルノートは「何をアホなことを」と一蹴すれば済む問題で、いずれも開戦を肯定する言い訳にならない(開戦派以外にとっては)。

如何なる理由・背景があろうと、当時の日本政府が十分に「謙虚で冷静で思慮深く忍耐強く交渉術に長け先見の明があった」なら回避出来たこと。戦争とはいつの時代も「時の指導者による自らの外交上の失策の国内外への責任転嫁」に他ならない。

 

「アジアを植民地支配から解放した」

「八紘一宇」「五族協和」「大東亜共栄圏」「暴支膺懲」等の大義名分は国民を鼓舞する為の美辞麗句・プロパガンダ。各地の独立運動に繋がったのは結果論。やろうとしたことは植民地支配。本当に解放が目的ならわざわざ日本語を教えない。

本音は「領土拡大と資源(財閥の利潤)確保」「軍の面子、列強国への劣等感の解消」「日清日露戦争や第一次世界大戦での勝利への陶酔」「日本は神国だ等の思い上がり」「国内テロの恐怖回避」である。

 

「自衛の為の戦争だった」

わざわざマレー半島やハワイへ出向いて先制攻撃するのは過剰防衛。正当防衛ではない。

 

「あの戦争は正しかった」

「起きるべくして起こった事」とは言えるが一概に「正しい事」とは言えない。善悪や正誤は相対であり、正しいかどうかは立場や観点によって変わるので「勝ったから正義」「負けたから悪」でもない。

戦争は常に「そこに至るまでの経緯を間違えた結果」なので、定義上「正しい戦争」は存在しない。同様に「正しい喧嘩・虐待・体罰・苛め・嫌がらせ」等も存在しない。「正しい殺人」は尊厳死・安楽死(治癒見込みのない肉体的苦痛からの解放)としてあり得る。

 

「起きるべくして起きた=回避できなかった」

起きるべくして起きた=回避できた、とも言える。事象や観点によって変わる右辺を「結果論」という。

 

「戦争は外交の一手段」

戦争は外交が破綻・頓挫・失敗した結果。一形態でも一手段でもない。

 

「日本は追い込まれたのだから悪くない」

挑発されれば殴って良い、というルールは無い。己が選択した行為を他者に責任転嫁することは、礼節を重んじ潔さを良しとする日本古来の武士道精神にも反する。苟くも憂国の士を自称し皇国の誇り高き大和男児たらんと欲するなら、いつまでも女々しく過去を正当化することに勤しむべきではない。

自慰史観・自慢史観に心酔して時代のせいにしている限り、真の戦争の原因(傲慢、情報収集能力不足、交渉力の拙さ等々)を理解できない。「正しかった」で思考停止し何も学ぼうとしない姿勢は、身を賭して戦争の何たるかを示してくれた先人に対する冒涜。

 

「韓国併合時はインフラ整備などいい事もした。恨まれる筋合いはない」

その目的は当時、併合され日本(の一部)となった地域の利益・繁栄であり、インフラ整備はその為の手段に過ぎない。本当は自分の為であるにも関わらず相手の為だったと嘯く事を「偽善」という。当時の三国人への蔑視・差別は現在より激しく、その姿勢が統治併合のやり方にも反映され未だ一部から恨まれる始末となっている。そもそも本当にいい事をしたなら相手から憎まれない。

 

「差別される側にも原因がある」

差別を含むあらゆる行為の原因は100%「行為する側」にある。別記「人権侵害に関するよくある勘違い」参照。

 

「当時の日本国民は犠牲者。国民に責任はない」

全く無くは無い。洗脳されていたとはいえ、自主性と教養の無い他罰的な己を省みず、当時の政府やマスメディアを過信し、世論・風潮に流され自分の意思で戦場に向ったのは、他ならぬ国民自身。仮に両政府の首脳同士が戦争開始を宣言しても、両国民全員が各々の為政者に従わず戦争に反対すれば戦争は起こらない。真に犠牲者と言えるのは、当時の子供たち。

 

「日本の戦争犯罪に時効はない」

。戦争当時生きていた人と今生きている人は別人格。親の罪は子にはなく、先祖の罪は子孫にはない個人と集団を混合するのは差別の一大特徴。

 

「大東亜戦争と称するのが正しい」

大東亜戦争は開戦後につけられた名称なので、右翼思想に傾倒していることをアピールする場合を除き、(アジア・)太平洋戦争等と称する方がより客観的。

 

「戦争せざるを得ない状況に追い込まれたのはコミンテルンの策略だ」「ルーズベルトの罠だ」

「こんな裏があると考えれば面白くて辻褄が合う」「定説と異なる視点から描けば注目され本が売れる」という発想が生んだフィクション。知識が中途半端で人間の行動心理に疎い者ほど、自分の知識不足を補完し合点するために虚構や妄想を必要とする。なお仮に陰謀論が全て事実だったとしても、上記したように開戦は正当化できない。

 

「あれだけ緻密で精密な歴史書が、フィクションである筈が無い」

似非科学論文と同じで、ある程度の知識があれば誰でも「素人が史実と錯覚するような緻密で巧妙な物語」を創作できる。陰謀説を広めることで儲かる出版界の策略に、メディアリテラシーの乏しい者が踊らされているだけ。

 

「田母神論文は正しい」

あれは論文ではなく「トンデモ右翼思想本の読書感想文」。感想文を論文と感じるのは、そう感じる者自身が無知無学で世間知らずでメディアリテラシーに乏しい証拠。

 

「田母神閣下を更迭したのは間違い」

己の知見に固執し政府見解に異見する者は、国防上の観点からも自衛隊幹部として不適任。見方を変えれば、彼が降格されずに済むほどには日本は平和ボケしていなかった(政府にユーモアのセンスがなかった)ということ。

 

「田母さんは愛国心がある」

他の自称愛国者同様、彼が愛しているのは「国をこよなく愛する自分自身」。愛己心を愛国心と錯覚する事を、自己肥大化という。自称愛国者の言動を見れば分かる通り、彼らは実際には愛国どころか「自分の理想と異なる今の日本」を嫌悪している。

 

「田母神氏は危険人物」

「情報リテラシーの低い人物によって一時期、自衛隊が率いられていた」という意味で危険だったとは言えるが、彼個人は「巧妙なトンデモ学説に感化されフィクションとノンフィクションの区別が付かなくなっただけのお茶目で天然キャラの好々爺」。そんな人物でも幕僚長になれるという「平和ボケ日本の微笑ましくも恥ずかしい実態」を内外に露呈したに過ぎない。

 

「南京事件は存在しなかった」

虐殺(を目撃)したという元日本兵を含む複数が、既に知人や記者や録音機やTVカメラの前で証言しており、虐殺の犠牲者の映像も残っている。存在しなかったと証明するためにはそれらが全て偽りであることを証明しなければならないが、悪魔の証明。

 

「南京大虐殺とされる映像や写真は捏造。だから虐殺は無かった」

仮に一部の資料が捏造だったとしても即「虐殺がなかった証拠」にはならない。「捏造を証明する写真が捏造でない証明」も必要。

アポロ月面着陸捏造説等と同様、あるのが常識とされる中で無いと言えば注目を集めることができる。マスコミに踊らされるのは常に、一次情報を軽んじる陰謀論好きの読者だけ。

 

「従軍慰安婦は存在しなかった」

日本兵を相手にしたと証言する慰安婦と慰安婦を相手にしたと証言する元日本兵が実在する(TVカメラの前で語っている)以上、いなかったと断定することは誰にもできない。また証言のうちの一つが仮に偽証でも、その他の証言が全て偽証であることにはならない。

 

「フィクションを混ぜてあるから、吉田清治証言は全てデタラメ」

二元論的解釈、白黒思考。一部が虚偽であることは全部が虚偽であることを証明しない。

 

「朝日新聞が取り消したから、吉田清治証言は全てデタラメ」

「朝日が歴史を作る」と思い込んでいる朝日依存症の裏返し。一報道機関が取り消した程度では「その証言は虚偽」を証明しない。朝日が取り消したのは「チェジュ島を舞台とした証言」だけ。裏付けが取れない記事は取り消して当然。

 

「沖縄戦で日本軍が住民に自決を強要した事実はない」

強要したと証言する元日本兵と強要されたと証言する住民がいる(TVカメラの前で語っている)以上、なかったとは言えない。仮に100人中99人がなかったと証言しても、あったとする1人の証言が即偽証であることにはならない。

不存在を証明することは本質的に不可能(悪魔の証明)。「事実はない・証拠がない」を口頭で述べても意味がない。

 

「カメラの前で語った彼らは雇われた役者。あれは演技」

証拠がない。

 

「不存在を証明できないなら、ネッシーがいないとも言えない」

物的証拠が無く「ネッシーの写真は自分たちが作った」と証言する者が実在する以上、虚構と判断するのが妥当。勿論、何を信じるかは最終的には個々人の選択の自由。

 

「証言だけでは証拠にならない」

裁判でも、物的証拠が無い場合は証言を証拠として採用する。その真偽は結局は聞いた裁判官の主観・心証で決まる。

 

「証言だけで事実になるなら河童もいる」

証言が虚言や狂言や妄言でないかは、最終的には聞いた者が判断するしかない。事実は無数にある。何を信じ何を疑うかによって、各判断者の知性や品格が問われる。

 

「史実・事実・真実は一つだけ」

誰かが「これが史実だ」と認識すれば、それはその認識者の個人的主観。主観は個々人の脳が決める。更には事実のテーマの数だけ異なる事実が存在する。つまり「真実は無限・無数にある」こそが唯一の真実。

 

「無数にあるのは事実認識であって事実そのものではない」

「現実・事実・史実・真実(に限らず概念の全て)」は常に「(各人が認識する)真実」である。()内は言わずもがな。

 

「真実は無限こそが唯一の真実、は自家撞着している」

文中二つの「真実」の定義範囲が異なるので矛盾しない。「万物流転(だがこの命題だけは流転しない)」などと同様、究極的命題は全て、言葉を杓子定規に解釈する者にとっては矛盾して見える。別記「哲学・因果応報〜に関するよくある勘違い」参照。

 

「それでも真実は一つだけ」

浅薄な哲学から導き出される理想論。そう主張する者が、主観と客観の区別が付いてない。あらゆる争いは「真実は一つ」に執着することから生じる。従って「真実は1つ」に執着する者ほど矛盾(煩悩・争い)を体験する。

 

「このサイトの編集者は左(右)翼」

そう主張する者自身が右(左)翼思想に洗脳されているために、そう見える(人は鏡)。

 

 

 

Ⅱ 外交問題

 

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「ひたすら日本が悪かったとする自虐史観は、自国に誇りを持てない子供を育てる」

自虐と自省は別物。「悪かったと認めることは自虐」という解釈こそ自虐的。「国が反省ばかりしていては自国に誇りや忠誠心を保てない」としたら、そう主張する者自身の矜持・自尊心・愛国心が”その程度で失われるほどに薄っぺらく浅ましい”証拠。

 

「もう十分謝った」「一体いつまで謝ればいいのか」

当然、相手がもう十分だと言うまで。それが贖罪というもの。十分かどうかは相手が決めること。

 

「謝り続ければ形で示せ等と付け込まれて、賠償金や援助を請求され損する」

必ずしも賠償金支払い義務は生じない(寧ろ逆の効果を生む)。謝るだけなら無料。払いたくないなら拒否すれば良い。

 

「尖閣諸島問題で衝突漁船をすぐに送り返したのは、中国の圧力に屈したから」

爪先を擦った玩具(船)を取り上げた途端に駄々を捏ね出した子供に、取り敢えず落ち着かせるよう玩具を返したに過ぎない。子供がヒステリーを起こしたら、本人の精神が落ち着きまともな会話ができるようになるまで待つのが大人。子供の癇癪に一々怒るのは児童心理学に疎い未熟者だけ。

 

「日本は圧力を掛ければ屈する国だという印象を与えた」

屈したと言えるのは、中国の損害賠償請求等に応じた時。日本が被害者なので当然、政府は「損害賠償を払う気はない」と一蹴している。子供をあやしなだめすかしコントロールすることを「子供に屈した」とは言わない。

 

「尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件では、映像をすぐに公開しないからある事ない事言われる」

「見てもいないのにある事ない事を言う」側の情報分析力の問題。どんな情報をいつどう公開するかは、持ち主の自由。解釈者の結果責任を表現者に転嫁するのは御門違い<。/p>

 

「映像を流した海保職員は英雄。彼を停職処分にしたのは間違い」

公務上知り得た彼個人の所有物ではない情報を独断で流出させ、折角の対中カードを台無しにした。その見えない損害は大きく、国家公務員として軽率と言わざるを得ない。

 

「弱腰外交だ」

強かな柳腰外交。仮に柔軟性のない頑なな態度で最後までカード(船長の起訴→裁判→懲役)を使い切って行こうとした場合、最終的に中国側のカードが無くなり尖閣を実効支配されていた可能性もある。相手の出方を観察し状況と時機を見極め絶妙なタイミングで押し引きを判断したたため、日本側のカードを残したまま尖閣を占領する口実を与えずに済んでいる。

ビデオ流出についても結果的に中国が表立って文句を言えない形に収束。身から出た錆とはいえ、自らの短絡さ・稚拙さが世界中に露呈され苦々しい思いをしているのは中国側。

外交は麻雀と同じで、一局限りの近視眼的視野に立つのではなく、下りる時は下りるのが肝心。正しい状況判断ができずに(真珠湾攻撃のように)全ツッパするのはズブの素人。

 

「もし尖閣を軍事支配されたら、米軍と自衛隊で取り返せば良い」

現代日本は領土問題を武力で解決するような野蛮な二流国家ではない。仮に占領されても米は日中間での話し合いによる解決を促すに留まり、実効支配が続き竹島の二の舞になるのがオチ。

 

「今中国が占領しないのは、米軍の抑止が効いているからだ」

単に「占領するに足る口実・正当化の材料が無く」「日本経済への依存度が高いので対立を避けた方がメリットが大きく」「好調な経済を棄損し国際的信用を落としてまでやるメリットがない」だけ。

 

「中国・北朝鮮の言うことは矛盾だらけ」

それが一党独裁軍国主義国家というもの。かつての日本が政府と軍の二重外交により国際的信用を落としたように、未成熟な国家が矛盾を曝け出すのは自然なこと。国内の反政府勢力の不満・内乱を抑えるため、対外的にも虚勢を張らざるを得ない。言葉通りに受けるのではなく裏にある真意を推量して然るべき。

 

「あの国は怖い」「言動が理解不能」「何を考えているのか分からない」

恐怖・不可解の原因は常に無知。勉強不足の証拠。中途半端な知識主ほど辛辣に批判する。

 

「抗議の為に腹や指を切って出血している。真摯に受け止めるべき」

やり場のない怒りをリストカットなど自傷行為で静めるのと同じで、本人の精神安定を図っているに過ぎない。彼らに必要なのは犯罪者やいじめっ子同様、非難ではなく治療。

 

「拉致した上に火の海にすると言っている。スクランブルを掛け威嚇している。竹島・北方四島を占領している」

慌てず騒がず静々粛々と国際ルールに則って主張すべき事を主張し、恫喝外交には怖めず臆せず淡々と正論を返せば良い。恐喝や強要を真に受けるのは相手の思う壺。同じように他国の国旗に火を付けたり指や腹を切ったりしても、世界中から失笑を買うだけ。

 

「中国とアメリカは近いうち戦争になる」

かつて無いほど経済的に相互依存し親密な関係にあり、両者とも戦争をするメリットがない。また両国民とも戦争に至るには最早精神的に成熟し過ぎている。

 

「阿片戦争のことは英国に文句を言わないのに、日中戦争の文句を言うのはおかしい」

単に前者の記憶が古過ぎて感情移入できないだけ。時が経ち世代が変われば国民性も変わる。

 

「日本人なら反中デモに参加すべき」

全てのデモは暴徒化しない限り表現の自由だが義務ではない。その実態は、不平不満が強く自己表現の稚拙な”自称正義の味方”による集団ヒステリー。

 

「反中デモは愛国心の意思表示。デモに参加しない日本人は非国民」

デモ行為の目的は、参加者自身の情緒安定&プライドの回復、つまり己の利益を図るための自己満足・偽善。「自分の利益が国家の利益」という妄想自体、自己肥大化による論理飛躍。

反中デモによって得をするのは、参加者本人(不安解消)と中国政府(内政問題から目を逸らせる)とアメリカ(在日米軍の存在価値が上がる)、ロシア(北方領土問題看過)、韓国(竹島占領看過)、北朝鮮(核・拉致問題が相対的に低問題化)及び各国の軍事産業・マスコミ(商売繁盛)。

一方、損を被るのは参加者以外の両国の善良な一般市民(経済活動が制限)と日本政府(対応に追われ時間浪費)と本来その時間に報道されるはずだった社会問題の被害者ら(人々の関心が低下)。更に日本のデモ隊が騒げば騒ぐほど、その映像の一部が都合よく編集・誇張され反日教育に利用され、日本政府の「領土問題は存在しない」が説得力を持たなくなり、問題を既成事実化しようとする中国の思惑通りとなる。

一時の感情に流され国家の長期的大局的利益より目先のエゴを優先しようとするデモ参加者こそ、売国奴・非国民と呼ばれるに相応しい。彼らが「弱腰だ言いなりだ」と政府を批判できるのは、恫喝外交を真に受け振り回される自分たちが弱腰で言いなり状態にあるという自覚・自己客観視能力がないからに他ならない。

 

「日本のマスコミの反中デモの取り上げ方が小さい。情報規制だ」

報道の自由のある日本では、邦人の生命・財産や日本経済に影響を及ぼす事柄ほどニュースになる。一部が暴徒化した中国の反日デモとは異なり、日本国内の反中デモは危険度も規模も小さいので報じる価値がない。整然とした退屈なシュプレヒコールよりも騒然とした暴動の方が、傍目にも興味・関心を引き視聴率も上がる。勿論それを「価値ある行動ほど報道される」と勘違いして過激化するのは愚の骨頂。

 

「平和ボケ日本国民は洗脳されている。目を覚ますべき」

国粋主義・国家主義・民族主義・右翼思想・新興宗教などに洗脳された者によくある自己投影。真に目覚めるべきはその主張者自身。

 

「中国・中国人や弱腰な日本政府が大嫌い」

中国の過剰反応や虚勢と自己矛盾に満ちた政府見解を真に受けて一々憤慨するのは、共産主義独裁軍事国家の実態や内政不安や制度矛盾に無知な証拠。一連の事象は日中両国の争いではなく、一部の無知蒙昧な両国の国粋主義者同士が互いの幼児性を露呈しあっているに過ぎない。

 

「靖国に参拝するのは日本人として当り前」

"日本人として"ではなく"英霊の御霊が靖国に集う等のファンタジーを妄信する国家神道や皇室神道の信者として"が正しい。論理的思考力の乏しい者ほど主語が大きくなる。

 

「他国に配慮して、総理大臣は靖国には参拝すべきではない。他人が嫌がる事をするのはマナー違反」

友が誤解していたらよくよく説明し諭すのが真の友。従って参拝するなら他国へ十分に説明し、どんな質問にも答えるのがマナー。最終的には誰がどこに参拝するかは個人の思想信条宗教表現の自由。「不愉快だから参拝するな」や「不愉快だから参拝するなとか言うな」はどちらも我儘。夫々が不愉快になる側の心の問題・自己責任・自業自得。

 

「安倍総理が、邦人が過激派に捕らわれていることを知りながら中東訪問したのは浅はか」

浅はかで不用意で迂闊で軽率で藪蛇だったのは中東訪問そのものではなく、カイロでの演説で2億ドルと並べて「contending with ISIL」と名指ししたこと。

あの文脈ではISILではなくrefugee problems(難民問題)、extreminsts(過激派)、terrorism(テロリズム)などとし、従来通り「ISILは世界秩序に対する最大の脅威」などと述べるに留めておけば、挑発と受け取られることもなく殺害の口実に利用されることもなかった可能性がある。官邸が平和ボケしており想像力・危機管理能力に乏しくテロリストの行動原理に疎い証拠。

 

 

 

Ⅲ 核武装論

 

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「アメリカが原爆を落としたのは、戦争を早く終わらせる為」

主に知性の乏しい米国保守層が盲信する後付けの言い訳。当時日本が降伏するのは時間の問題で、和平交渉の動きは既に始まっていた。「時機を逃せば折角の開発費が無駄になる」「国際社会に国力を誇示し終戦後に敵対する事になるソ連を牽制する」為に、敢えてポツダム宣言を日本が承服し難い条件にして終戦までの時間稼ぎをし、ウランとプルトニウムの違いを比較するべく続けざまに2個落としたのが実態。

 

「原爆を落としたから数百万の人命が救われた」

これも思考停止した米国保守層が好む言い訳。当時の日本軍には沖縄を奪い返すだけの力すらないのだから、少なくとも本土上陸せずにそのまま睨み合っていればそれ以上の犠牲者は出ない。原爆投下が当座の戦略上余計な武力行使であったことは、当時の米軍指揮官や政治家も証言している。

 

「真珠湾攻撃したから原爆を落とされた。自業自得」

攻撃されれば核兵器で仕返して良い、というルールは無い。東京大空襲(死者10万人)一つみても人的物的損害被害の大きさは真珠湾攻撃(同2400人)の比ではなく、ましてや原爆投下の正当化にはならない。行為の原因は常に行為者。被行為者には原因はない。論拠詳細は感情自己責任論を参照。

 

「原爆を落とされたのは、当時日本が核武装していなかったから」

正しくは「制空権を奪われていたから」或いは「B29を撃退するだけの戦力すらなかった」「軍が疲弊して国民の生命財産を守れていないにも関わらず、政府が迅速な意思決定力に欠けていた結果、降伏が遅れた」から。

仮に当時日本が原爆を開発済みだったとしても、それを空輸できるB29レベルの性能の機体は日本にはないので核報復できない。よしんば空輸できたとしても、詳細な地図を把握し暗号も解読していた米国にその動向を見抜かれ、事前に妨害された可能性がある。

 

「原爆を落とされたのは仕方ない」

結果論。歴史を具に学べば「やるべき(でない)事をや(らなけ)れば防げた」と分かる。この主張者は歴史を「知っている」だけで歴史から「学んでない」。

 

「核を持っている方が発言力・交渉力が高まる」

発言力の有無はその内容の妥当性で決まる。実際には核を保有すると為政者は傲慢になるので、交渉力は低くなる。

相手が核を持っていようといまいと言うべき事は堂々と言えば良い。核恫喝を真に受けて意見しないのはテロに屈するに等しい。

 

「核保有すれば一等国になれる」

植民地を持てば列強国と肩を並べられるという戦前日本の軍国主義者と同じ思考レベル。劣等感の裏返し。

 

「日本も自衛のために核を持つべき」

核拡散防止条約の精神に逆行する愚案。持つと公式に宣言した途端、周辺国の核弾頭が日本に向けられ却って危険度が高まる。死刑があると凶悪犯罪が増えるのと同じメカニズムで、核を持てば相手国への態度が横柄で挑発的になり却って戦争の火種を生む。

核武装論は、その支持者にとっての精神安定剤。その根にあるのはコンプレックスと人間不信と説得力・忍耐力の無さ。彼らもまた知識偏重教育の犠牲者。

 

「周辺国が核武装しているのだから日本も持つべき」

隣近所の全員がその手に大便を握り今にも垣根を越えてそれを投げ入れようと構えていたとしても、その愚行を真似る必要はない。

 

「日本が核攻撃されればアメリカが核報復してくれる」

日米間にそのような確約は無い。通常兵器で報復するかどうかすら、その時の情勢・状況による。「米国の核の傘」は錯覚。核を使われないための最大の防衛策は、「核を使う口実を相手に与えない事」である。

 

「戦後日本が平和を保てたのは米国の核の傘のお陰」

核が無くても平和な地域は平和。核を持っていてもテロの被害にあう国はあう。「米国の核の傘」は幻想。日本が攻撃された際に米国が核報復する確約はない。自らの平和を保ちたいなら、まずは相手の心の平和を尊重することが肝心。

 

「印パ間で戦争が起こらないのは、核の抑止力が利いている証拠」

実際には両国の核保有後も紛争は起きている(カールギル紛争)。パキスタンが保有するまでの四半世紀間、印度は一度も核兵器を使っていない。パが持った途端に印が使わなくなった訳ではないので、核抑止になっているとも言えない。寧ろインドが持った為にパキスタンに核拡散したと言える。核保有には抑止力は無く、寧ろ保有国の外交姿勢を横暴化させる。

核兵器を含む如何なる武器も“それがどんなものかを知らない者”に抑止力は働かない。「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ環礁その他の体験者の証言」や核戦争を描いた小説・漫画・アニメ・映画等による記録媒体も、それだけでは単なる情報に過ぎない。正しく解釈され正しい知識・記憶・教訓となって初めて意味を持つ。その理解力は教育によって培われる。即ち真に抑止しているのは物ではなく教育。

 

「インドが核を使用しなかったのは、パキスタンと友好関係にあった中国や米国の核が抑止したから」

パキスタンが核攻撃されたら米中が代わって核報復する、という条約は当時も今も無い。

 

「キューバ危機が回避されたのは核の抑止力が発揮された証拠」

そもそも「キューバ危機が起きたのは核があったから」であることを忘れてはならない。回避されたのは「核攻撃するほどのメリットが無かった証拠」。米ソ首脳陣が互いに民度が低ければ、譲り合わずに大規模な武力衝突が起きていた可能性はある。

両国とも当時の状況下では「全面的武力衝突を必要とするほどの事態ではなかった」ので、局地的な衝突のみで事態は収束。つまり、核が使われなかったことを以って「核の抑止力が働いた」と結論付けるのは論理飛躍した結果論であり前後即因果の誤謬。

 

「日本は唯一の被爆国」

厳密には「唯一の実戦における直接被爆国」。それ以前に、ウラン鉱山の労働者や放射能を発見した科学者や、キュリー夫人ら放射能研究者、ラジウムガールズ、ロスアラモスの研究者、トリニティ実験に参加した米兵らがいる。

1945年以降米ソ仏英中を中心に核保有国が世界各地の大気中・大気圏外・海中・地中で行ってきた2000回以上の核実験により、夥しい数の兵士や地域住民や生物が被爆し犠牲となっている。

 

「日本は唯一の被爆国だからこそ、核を持つ権利がある」

この理屈は「ナイフで刺された子供こそ、学校にナイフを持ち込む権利がある」「サリンを吸わされた者こそサリンを製造する権利がある」「車に轢かれたからこそ運転する権利がある」「拳銃で撃たれれば拳銃を持つ権利が発生」等と同レベルの論理飛躍したヒステリックな感情論。権利の有無は被害経験の有無で決まらない。

 

「それなら”日本は唯一の被爆国だからこそ、核を持ってはならない”も感情論だ」

事故に遭った者が「二度と自分のような被害者を出さない為、せめて自分は他人を同じ目に遭わせる可能性をゼロにしたい」という倫理的観点には一理ある。

 

「日本は核を持たないと宣言すべきではない」

既に非核三原則を宣言しており今更遅い。

 

「寄港する米軍艦内には核弾頭があり現実には持ち込んでいる。かつては沖縄にも核兵器があった。非核三原則はとっくに破られている」

少なくとも公式には許可しておらず、また国土上には持ち込んでいない。

 

「核武装論は議論すべきではない」

議論は言論の自由。「核武装の必要がある」と思うのは、その者に議論が不十分な何よりの証拠。

 

「日本政府は議論が足りない。核武装論を検討すべきだ」

そう主張する者は次の2点に気付くべきである。1.日本政府はとっくに核議論をし尽くしており「核武装しないことが国益の為に最善」という結論を出していること。2.核議論が足りない日本政府は核議論が足りない己の投影であること。

 

 

 

Ⅳ 軍隊

 

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「軍隊は戦争の抑止力になる」

軍隊が有っても無くても攻撃されるところは攻撃され、されないところはされない。個人が武器を持つとその威力を試したがるのと同じで、軍隊を持つと(特に精神年齢の低い)為政者の気が大きくなり力を誇示しようとする心理が働くため、逆に戦争の促進力になる。

 

「武器や軍隊があるからこそ戦争が起こる」

武器や軍隊の存在自体は争いの原因ではない。どんな道具・概念も使い方次第で損益・利害が決まる。戦争を含め争いの原因は常に精神的未熟。その原因は低水準教育。

 

「武器や軍隊があるからこそ平和を維持できる。国連の平和維持軍がいい例」

国連軍が維持しているのは局地的一時的表面的な治安・秩序であり、本当の意味での平和ではない。

「軍隊(武器、核)があるから平和」は因果が逆。「平和でないから軍隊(核、銃)がある(必要)」が正しい。「軍があるから平和」の対偶「平和でないから軍が無い」が真でないことからも、偽であることは明白。一方、「平和だから軍隊がない」とその対偶「軍隊があるから平和でない」はどちらも正しい。

「武器があるから平和」は、「心の平穏・不安解消」を武力に依存している潜在的テロリストに多い錯覚。

 

「かつて琉球王国は軍を持たなかったから薩摩に侵攻された」

実際には薩摩軍より多い軍を持っていた。結果的に敗戦したから侵攻されたのであり、「軍を持ってなかったから」ではない。

 

「防衛戦略上、沖縄に米軍基地は必要」

米国の軍需産業界が、自分たちが潤う為に主観的に必要としているだけ。

 

「米軍の存在が抑止になり攻撃されないから沖縄は平和」

米が東亜の某国と全面戦争になった場合、真っ先に核弾頭が向かうのは米軍基地。仮に有事の際の危険度を度外視しても、米軍関係者による騒音・強盗・レイプ・轢き逃げ・墜落等を考えれば到底平和とは言えない。

米軍が居なくてもやるべきことをやれば平和は保たれる。米軍依存はただの他力本願的怠慢の表れ。

 

「やるべきことをやれば良いなどというのは抽象に過ぎる。理想論」

そう感じる者が無知故に何をすべきか分からないだけ。具体的に何を為すべきかは、このサイトの全頁を読んで理解した者には自明の通り、高水準教育である。

 

「鳩山元総理は、米軍の抑止力を認めた」

彼が最後に聞いたのが抑止力があるという意見だったか、さもなくば立場上そう言わなければならなかったというだけの話。結局は「あれは方便」と述べ、抑止力を否定している。

 

「見解がコロコロ変わるので政治家は信用できない」

人を見ずに早合点して勝手に信用する側の自業自得。どの政治家のどんな発言にせよ、言葉に右往左往するのは解釈する側の問題。

 

「沖縄の経済は基地に依存している」

返還直後は17%前後だったが21世紀初頭現在の依存度は5%程度。基地を無くして空間を有効利用した方が経済は活性化する。

 

「中国の軍事費の伸びは脅威」「日本も軍事費を増やすべき」

軍事予算は日本以外の殆どの主要国が伸ばしており中国だけの問題ではない。外交手法が未熟で理性が利かない者ほど武力に頼る。民度の低い集団の真似をしたがるのはその主張者もまた同レベルであることの表れ。脅威脅威と騒ぐこと自体相手の思う壺であり、それによって喜ぶのは国内外の軍需産業やメディア産業。現時点では、軍事費よりも中国の海洋汚濁・大気汚染等の方が遙かに脅威。

 

「自分の国が侵略された時に戦わずに逃げれば国が滅ぶ」

逃げる方が生存率は高まる。逃げずに戦えばより多くの人命が失われる。国民が多く死ねば死ぬほど、国が滅ぶ可能性は高まる。結局、先を見据え人命を第一に考える国家ほど滅びにくくなる。

 

「自分の国が侵略された時に戦わずに逃げるのは臆病者」

プロのボクサーが相手のパンチを避けるように、一時的退避や逃走も戦略の一手段。己のプライドの喪失に恐怖する者こそ真の臆病者。

 

「侵略されないために軍隊を持つべき」

「侵略される、危機だ」と騒ぐ本当の理由は、騒ぐ人間が得をする(精神安定を図れる、金銭的に儲かる)から。武装は安心を得るための必須条件ではなく、軍隊を持たなくても(相手を知り己を知ることで)安心することは可能。一国の最大の安全は、他国からの信頼と親愛を勝ち取ることで実現できる。侵略されないための最大の防衛策は「侵略する口実を相手に与えない事」。軍備を整える事ではない。

 

「相手が勝手に口実を作って侵略してくるのだから、軍隊を持つべき」

“勝手”と感じるのは、相手を熟知していないせい。相手を知り己を知れば、軍隊を持つ必要はなくなる。

 

「相手を知るなど非現実的。理想論。脳内お花畑。馬鹿馬鹿しい」

などと言って思考停止しているから、いつまで経っても相手を知る事が出来ない。相手を知る前に己を知るべし。

 

「個人間ですら相手を知り得ない。国家間では尚更無理」

そう思っている者自身にとっては確かに無理。何故ならその者にとっては「個人間ですら相手を知り得ない」のだから。「自分が不可だから他人も不可」は「主観の客観化」という錯誤。交渉力の低い人間同士は無理でも、高い人間同士は可能。仮に政府同士が仲が悪くても市民同士が仲良くすれば良い。事実そうしている人は大勢いる。

 

「政府が仲悪かったら市民レベルでも仲良くできない」

そう主張する者が日頃から「対個人・市民レベルの交流をしていないため、相手国に友人知人がおらず、相手国の政治・思想・宗教・哲学・習慣・文化・歴史・地理・法律・社会通念・国民性に疎く、アイデンティティや帰属意識や愛の対象範囲がせいぜい自国家止まり」なため、どうしても木を見て森を判断してしまい偏見を拭えず仲良くできないというだけの話。

 

「軍人は勇猛果敢で潔く愛国心があり敬うべき職業だ」

劣勢と見るや否や民間人を置き去りにして我先に敗走した軍人は、歴史上ゴマンといる。現実には臆病でチキンな者ほど、強い武器を所持し己の力を誇示したがる。本当に勇気ある者は「死ぬ時は死ぬ」と覚悟しているので武装すらしない。

兵士になりたがるのは「集団心理に弱く洗脳されやすい意志薄弱者」か、さもなくば「自分だけは弾が当たらないと思っている楽天家」「他に職のない貧乏人」「体力だけは自信のあるナルシスト」「命令に従う事に喜びを覚えるマゾヒスト」「軍服に身を包めば強くなった気がする変身願望者」「戦闘機パイロットに憧れているヒーロー願望者」「資格マニア」「潜在的自殺志願者」「軍事オタク」が多い。

愛国心は裏を返せば「自分たちさえ良ければ良い」という内向的で幼稚な民族主義・国粋主義の顕れ。民度の低い国家ほど、武力に頼り軍隊を崇める傾向が強くなる。

 

「軍拡しなければ日本は滅亡する」

先の大戦では軍拡し過ぎた結果亡国の危機に瀕したが、それでもまだ日本は存在している。どのみち数億年後には列島毎マリアナ海峡の底に沈んで無くなるのだから足掻いても無駄。アイデンティティを日本人にしか求めないのは了見が狭い。

 

「自衛隊に入って日本を守りたい」

目的が「警察や救急隊や消防隊では対処できない人災天災から人々の生命財産を守るため」ならまだしも、「国土を守るため」なら自己満足。「国民の生命・国家の平和の為」なら、事件事故を無くす活動に精を出す方が余程効果がある。

 

「国土を守ることが国民を守ることに繋がる」

交通事故で年1万人、自殺で年2〜3万人、病死はそれ以上。領土問題では年数万人も死んでいない。結局のところ、自衛隊が守ろうとしているのは「国民の命」ではなく、「国家の威信・プライド」や「政府要人の生命・財産」に過ぎない。

 

「万が一交戦することになれば自衛隊しかない。その為の自衛隊」

これは裏を返せば「いつか日本政府は(かつてのように)外交失策するだろう」と思っている、即ち、心のどこかで「日本国政府・日本国民の叡智を信用してない(馬鹿にしている)」ということ。政府高官の愚かな選択の後ろ盾となったり尻拭いをしたりすれば、却って国民を危険に晒すことに繋がる事は歴史が証明。

 

「日本も徴兵制にすべき」

必要ない。民度の低い国家ほど徴兵制を布いている。別記「民度・文明度〜特徴」参照。

 

「ニートや引き籠りは自衛隊に体験入隊させ鍛え直すべき」

体罰容認者に多く見られる時代錯誤の根性論。それ以外の手段で彼らの意識を変える手段を知らない者による無能アピール。

 

「911米同時多発やオウムや安重根のテロは狂気だが、神風特攻隊は美談」

いずれも特定の思想・宗教に洗脳された若輩者によるテロであり狂気。対象は911テロが「米資本主義の象徴であるWTCの利用者」、地下鉄サリン事件は「中央官庁付近の地下鉄利用客」、安重根は伊藤博文、特攻隊は「米軍に属する者」。いずれもそれぞれ限定された対象を標的にしたテロであることには変わりない。

「特攻隊には感情移入出来るが他のテロにはできない」は内集団バイアスに自覚のない者による視野の狭いダブスタ。民度の低い社会ほど、テロリストを英雄視する。

 

「命を張って戦場に散った英霊のお陰で日本が護られた」

逆に彼らが当時の政府に盲従し敵に抵抗したお陰で戦争が長期化し、特攻によって徒に敵対心と恐怖心を植え付け、その後の日本中の空襲や原爆投下の口実・正当化に利用されている。戦うことだけが護国ではない。愛する自国を護るための行為が、却って甚大な被害を齎すこともある。

 

 

 

Ⅴ その他戦争論

 

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「戦争は無くならない」

主張者が無くし方を知らないだけ。あらゆる個人レベルの喧嘩や揉め事と同じで、やるべきこと(=十分で適切な高水準教育)をやれば戦争は止む。

かつて人間不信が今より根強かった頃は日本国内でも内乱が絶えず、例えば川の両岸で水利権を争って殺し合ったり、今の愛知と岐阜、山口と鹿児島などが戦争をしていた時代もあった。しかし近代的な政治制度が確立し人々の自意識も拡大した今は人々の視野も広がり、食料独占や領土拡大などを企図する利己的な者はいない。同じ現象が今後は世界規模で起きるのは自然の摂理。今はその過渡期。

今なお世界各地の紛争が名も無き人々や仲介人の不断の努力により未然防止されている。大きく報道されることだけが事実ではない。

 

「暴力主義者は社会から無くならない」

やるべきこと(高水準教育)をやれば無くなる。我々一人一人が心のどこかで「言って駄目なら叩くしかない」等と暴力を肯定している限り、その反映として「己の説得力の無さを暴力に訴える者」即ちテロリストが生まれ戦争も発生し続ける。

 

「地球のどこかで戦争が起こっている限り、地球が平和とは言えない」

理想主義者にありがちな完璧主義的悲観主義的拡大解釈。平和は「地球や国単位でしか定義できないもの」ではない。戦争をしているのは一部の愚者だけ。世の中が平和だからこそ戦争が注目を浴びニュースになる。

 

「仮に戦争が無くなっても、抑止するための武器や軍や核は必要」

地球の文明が未熟なうちは必要だが、高度に発達すれば全て廃棄可能。高度文明社会では危険人物は未然に隔離なり矯正教育が為され犯罪が起こらないので、警察権力や裁判所・刑務所の類も必要なくなる。これを理想論と感じるのは人間不信が強く知恵と想像力が足りない証拠。

 

「仮に軍隊が無くても警察が武器を持っているから平和を維持できる。武力無しに平和は無い」

「武力無き平和」を想像・創造できない者にありがちな思考停止。平和の実現に武力は必須ではない。武力を必要とするならそれは似非(疑似)平和。少なくとも近い将来、全世界の警察が非殺傷武器のみ使用するようになる。

 

「戦争があったから科学技術も進歩し今の繁栄がある」「戦争は必要悪」

結果論。進歩や発展は技術者たちのヤル気と勤勉と創意工夫の問題であって、戦争が無くても十分に成され得る。寧ろ戦争で人類が被る物的・人的・精神的・文化的・時間的損失の方が、遙かに甚大。何にせよ「必要悪」としたがるのはそれを止める方法に疎い物の自己欺瞞。

 

「争いの原因は宗教(思想・価値観の違い)」

宗教が異なっても互いの価値観を尊重し認め合い隣同士仲良く暮らしている人は大勢いる。争いの原因は「当事者が宗教を都合のいいように解釈していること」即ち「争う者の心の病」。例えば、イスラム過激派はクルアーンを自分たちの愚行の正当化に利用しているに過ぎない。争いの原因は「クルアーンそのもの」ではなく「クルアーンのみで教育を終わらせること」にある。

 

「争いの原因は貧困・エネルギー問題・人種・民族の違い」

物質的に恵まれない人や飢餓に苦しむ者が常に全員窃盗を働く訳ではなく、人種・民族が違っても睦まじく暮らしている人は大勢いる。争いの原因は唯一「心の病(精神的未熟)」であり、その原因は「低水準教育」にある。物質的な貧しさその他は全て正当化の為の言い訳に過ぎない。

 

「争いの原因はいろいろある」

いろいろはない。常に当事者の「心の病・精神的未熟さ」が原因であり、未熟な原因は「低水準教育」。「金」「正義の実現」「宗教」「肌の色の違い」「価値観の違い」「制度上の不備」「当事者以外の第三者」「物質的貧困・貧富の格差」その他「目に見える何か」は、どれも単なる“口実”であり争いの原因ではない。

 

「争いの原因は世の中の矛盾」

矛盾は原因ではなく結果。原因は「物事の摂理・必然性」を解さない未熟者の「心の病・精神的未熟さ」。未熟者故に外に矛盾が見える。この世(心の外)には最初から矛盾は存在しない。存在するのは「矛盾を正す為には争うしかない、と考える無知な人間」。

 

「銃が人を殺すのではなく人が人を殺すのだから、銃規制はすべきではない」

この理屈を拡大すると「車が人を運搬するのではなく人が人を運搬するのだ」となって車や航空機や戦闘機も免許や規制が不要になる。そもそも「銃規制」で実際に規制しているのは結局のところ「銃を使う人」。規制しない理由にならない。

 

「戦争に行くことは殺人や自殺とは異なる」

本質的には同じ事。集団的殺人行為であり自殺行為に等しい。誰一人殺さず無事帰還できたとしても、それは結果論に過ぎない。

 

「戦争希望。早く戦争になればいいのに」

現実逃避・自殺願望の一種。

 

「極右と極左は主張が正反対」「右翼は暴力主義で左翼は平和主義」

中庸(平和主義)を時計の12時とするなら極右極左(暴力主義)は6時を挟んで隣り合っており、共通点は多い。

即ち「クソ真面目」「あまり自分を愛していない」「独善的で視野が狭い」「自由と我が侭を履き違えている」「好戦的で全体主義的で人命軽視」「偏狭思想に洗脳されている自覚がない」「自分の思想が普遍性に乏しいという自覚がない」「自分たちこそが正しいと勘違いし優越感に浸っている」など。

こうした特徴は911テロやオウム真理教テロの他、犯罪者・暴力団・暴走族等あらゆる暴力肯定者にも多く見られる。如何なる思想信条も内心の自由だが、「他人の自由を侵害する自由(という名の我儘)」は社会に不幸を齎すので規制される。

 

「あの地方議員は郷土愛が無い」「あの国会議員は愛国心が無い」

そもそも郷土愛や愛国心が無ければ議員にならない。この主張者が考える郷土愛や愛国心だけが全てではない。

 

「郷土愛・愛国心を持つよう教育すべき」

愛の対象範囲を郷土や国家止まりにするのは視野狭窄。「自分の国さえ良ければ良い」という自己中心的で独善的な子供に育つ。人類愛を持つよう教育すべき。

 

「君が代は天皇崇拝で軍国主義の歌なので、国歌として相応しくない」

歌詞を端的に書くと「愛する人よ、長生きしてください」で、元々は恋人宛に読んだ短歌。“君”が天皇を指すという解釈の方が後付けで、一時的に戦争賛美に利用されたからといって歌そのものに罪は無い。物騒で殺伐とした諸外国の歌詞に比べれば平和そのもの。

 

「学校の教員は行事で君が代を歌う義務がある」

自由はあっても義務はない。いつ何を歌おうと歌うまいとその人の思想・信条・表現の自由。とかく民度の低い集団・個人ほど統制規制弾圧を好む。

 

「嫌いな国の国旗は焼いて良い」「自国の国旗を焼かれたら抗議すべき」

どちらも感情論であり幼稚なナショナリズム。国旗は竿と布と塗料等から作られた単なるシンボル・記号。相手が勝手に己の知性の無さを露呈しているだけなのだから、すべきは抗議ではなく同情。

 

「国民は国旗に敬意を表すべき」

偏狂なナショナリズム。国家国民への敬意の表し方は様々。何に敬意を表するも表しないも表現の自由であり自己満足。

 

「国旗にお辞儀をしない閣僚を見るとイライラする」

そう主張する者が感情に自己責任が取れていないだけ。軽くトンデモ右翼思想に洗脳されている証拠。

 

「パラオの国旗が日章旗に似ているのは親日だから」

デマ。デザイン考案者本人が自らカメラの前でそれを否定している。

 

「日本人なら天皇誕生日を祝え。キリストの誕生日を祝うな」

誰の誕生日を祝い楽しむかは個人の自由。様々な異文化に寛容で多様性に柔軟なのが日本人古来の特性。国家神道のみを国教と認めるのは民度が低い証拠。天皇の臣民の平穏を願い強制を望まない御心を無視して個人的思想の押し付けに天皇を利用すること自体が、不敬。

 

 

「検討中考案中調査中勉強中休憩中企画中考え中却下中検索中思案中募集中待機中」

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