教育躾体罰・法律ルール礼儀作法マナー・交通事故の原因に関するよくある勘違い

 

Ⅰ 教育・躾・体罰(体罰絶対不要論) ※「体罰は必要」は無能者の言訳(ーー;)

Ⅱ 法律ルール礼儀作法マナー     ※精神的に未熟な人ほどマナーを要求したがる(๑╹ω╹๑ )

Ⅲ 交通事故の原因          ※原因は常に唯一、状況判断能力の欠如(・m・)

 

 

Ⅰ 教育・躾・体罰(体罰絶対不要論)

 

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「口で言って聞かなければ叩けばよい・叩くしかない」

教育・躾に体罰・虐待は不要どころか害悪・禁物。「自分の言動の是非・善悪・結果に対する判断や他者への慈しみを理解出来ない者」に必要なのは、適切な学習と訓練と保護監察。体罰や暴力に頼るのは創意工夫・指導力・許容力・寛容の無さの表れ。虐待や体罰は、そうした己の無能さを相手に責任転嫁する行為。

 

「現実問題として体罰が必要な場面もある。体罰を容認しない者は現場を知らない」

交渉力・説得力・知恵・忍耐力に欠けた無能者の逃げ口上。躾と称される体罰の多くは、「早く用事を済ませたい、掃除したくない、楽をしたい、怒りをぶつけたい、馬鹿にされたくない」等、大人の都合によるエゴの押し付け。精神的余裕の無さから来る支配欲の充足。

仮に暴れて手の付けられない相手であっても、刺股や合気道・柔道技で双方が怪我しないよう押さえ込めば良い。緊急避難・正当防衛。体罰に該当しない。それでも興奮が治まらないようなら公務執行妨害や威力業務妨害として現行犯逮捕し警察に引き渡せば良い。警察や刑務官も法律上、体罰は禁止されている。暴れる人間を取り抑えるのに鉄拳やビンタは必要ない。

 

「体罰は虐待・暴力ではない」

いずれも暴力(不法な力の行使)であり、繰り返せば虐待。体罰は子供の脳を委縮させ健全な発育を阻害し、粗暴で自愛心・自己肯定感の乏しい「力に頼った問題解決を志向する精神的に未熟な人格(潜在的暴力肯定主義者)」を養成する。かつて主に欧州で2度の世界大戦を体験し中近東で今もテロが横行するのは、躾で体罰が当たり前とされていた(いる)からに他ならない。

虐待同様、体罰も世代連鎖する。実際、体罰を容認する人の中には子供時代に体罰を当たり前のように受けて育ち、我が子にも体罰を与えた者が少なくない。「自分の育て(られ)方が実は間違いだった」とは思いたくないので、正当化しているだけ。

 

「体罰する側が教育的目的を意図しているなら、或いは体罰を受けた側が成長しているなら、それは暴力ではない」

それが虐めか遊びか、体罰か暴力か、躾か虐待かなどは当事者の主観で決まるものではない。行為者の意図や結果のみでは正当化されない。

 

「同じ事をしても体罰か躾かなどは捉え方による。指導する側の問題ではない」

それが虐めか遊びか、体罰か暴力かは以下同文。なお、熟練した指導者は相手の個性等状況に応じて柔軟に指導のやり方を変える。

 

「虐待ではなく躾」「体罰ではなく教育・指導」

そのような弁解・釈明の必要が生じている時点で、やり方が不適切であった可能性がある。

 

「体罰を受けて更生した例もある。全ての体罰を禁じるのは更生の可能性も無くす」

前後即因果の誤謬。更生したのは「体罰を受けたから」ではなく「愛を受けたから」。その証拠に更生したケースでは必ず殴った直後に切々滔々と説諭している。殴打にあるのはあくまでも「一時的にショックを与え思考停止させ自分に注目させる効果」に過ぎない。殴打自体には教育効果はない。

 

「洗脳も教育のうち」

洗脳は間違った教育、教育は正しい洗脳。その正誤は「体罰や薬物を使うか否か、受け手に選択肢を与えるか奪うか、社会を幸福にするか否か」等で総合的に判断される。

 

「私もしょっちゅう殴られたが、たまに褒めてくれる優れた先生だった」

この主張者自身が洗脳状態にある。DVにおける共依存と同じ。真に優れた教育者は体罰をしない。

 

「体罰のお陰で、理不尽に対しても心が折れない精神力・社会適応力が身に付いた」

認知的不協和の解消のための言い訳。主張すべきを主張するのが適応力10とするなら、我慢するだけの適応力はせいぜい3。従順なだけで批判精神や自己表現力が乏しい者はブラック企業等に搾取され、却って社会問題の顕在化を妨げる。

 

「愛のある体罰もある」「憎いから叩くのではない、愛するから叩くのだ」

偽善の典型。実際には「自分の思い通りにならない相手を愛せない」から叩く。愛は何も必要としない。体罰を必要とするのは自己愛・エゴ。自己愛が他者愛に優先するのは、そこに愛が不足・欠如している証拠。

 

「信頼関係があれば体罰もOK」

十分な信頼関係があればそこに恐怖支配や洗脳の出番はない。

 

「教育に恐怖は必要」「愛の鞭は必要」

そう言っている者が教育者・指導者として未熟なだけ。鞭を使うのは相手に「お前は言葉の通じない動物だ」と言っているに等しい。その動物は「説得力の乏しい本人」の自己投影。

 

「猛獣の調教に鞭は必要」

それは野生動物を無理に従わせようとするため。自己満足、エゴであり動物虐待。餌を与えることで調教は可能。

 

「表面的・一時的にせよ効果があるのだから体罰すべき」

この場合の効果とは「恐怖支配効果」であって「教育効果」ではない。恐怖を与えたところで人は「傾聴力・自制心・独学力・向上心・学習意欲の維持法・具体的な問題解決力」を学習しない。

 

「一時的にせよ効果があるのだから恐怖支配も活用すべき」

そうするとその子供は「恐怖を与えられなければ授業に集中できない気質」のまま放置されることになる。根本的な解決になってない。

 

「根本的解決でなくても一時的解決にはなっているのだから、それだけでも有効。体罰すべき」

大人のそうした短絡的行動を見た子供は、「叩けば解決」というテロリズムを指向するようになる。テロリズムに対する批判的思考力が乏しい大人がいる限り、犯罪や戦争も起こる。

 

「体罰した程度で戦争になることはない。論理飛躍」

児童教育における体罰がテロリストを増やすことは歴史が証明。世界大戦以前は欧州でも体罰が常態化していたために、「戦争すれば問題解決」と考える知性の乏しい政治家を多く生み戦争に至った。21世紀初頭の現在でも中東・アフリカでは子供への体罰が横行しているので、その地域で育った人々にはテロリストが多い。

 

「イザという時に体罰ができない教師は無能」

有能な教師は仮に物理的に体罰ができてもその副作用や弊害、体罰を受けた側の立場を考えて実行しない。「体罰しない=体罰できない」ではない。仮に能力的に体罰できない教師が能力5なら、常に体罰する教師は能力1、イザという時体罰に頼る教師は能力2、如何なる状況でも体罰に頼らない教師は能力10となる。このように最初から想定基準が低いのが体罰肯定者。

 

「今の子供は我慢が足りないから体罰するべき」

自己投影の典型例。そう主張する者自身が我慢・自制心が足りないからこそ先に手が出てしまい、それを自己正当化するために体罰を肯定する。子供の忍耐力の無さを批判する前に、己の忍耐力の無さを省みた方が良い。

 

「教師の体罰を認めないから、子供に舐められ学級崩壊が起こる」

子供が真に舐めているのは、体罰に頼らなければ言う事を聞かせることのできない無能な大人。

学級崩壊の原因はひとえに教師の力量不足。子供にとって楽しい授業ができないなら教育する資格がない。体罰は学級崩壊を表面的・一時的に無くす効果はあるが、子供は「怖い大人の前では大人しくていよう」という姑息な処世術を学ぶ。結果、将来「誰も見ていないなら悪いことをしてもOK」と考えるようになる。

 

「体罰はご法度でも、叱るべき時は叱るべき」

叱る必要性が生じた、ということは「それまでの指導法や先見力に欠陥・不足があった」証拠。反省すべきは「前以て適切な躾ができず、叱りを要する事態を招いた大人自身」。よって、子供を叱るのも大人の無能の責任転嫁に他ならない。

 

「子供は褒めれば調子に乗り、叱れば伸びる」

いわゆる「賞罰の錯覚」。実際には「伸びた時に褒め、調子に乗った時に叱っている」だけ。

 

「子供には体罰を受ける権利がある」

仮に受ける権利があったとしても同時に「体罰を受けない権利」もある。いずれにせよ行使するか否かは権利者が決めることであって、体罰を与える側が決めることではない。

 

「子供に人権はない」

前近代的発想。仮にないとしても、それは人権ではなく謂わば「成人権」。「子供の人権や幸福追求権を認められないほどに人権概念が未熟な者」も、精神的には成人ではない。

 

「スポーツで強くなるために体罰は必要」

体罰以外に強くする理論手段手法を知らない勝利至上主義。体罰で強くなるのは「もともとの能力が1の子供を3程度に上げるレベル」の話で、しかも必須ではない。10に上げるのに必要なのは子供の自主性を重んじる最新のスポーツ科学理論。

 

「知的障害があり言っても分からないので、叩いて躾けるのはしょうがない」

そう主張する者自身に「知的障害に対する無知・無理解」という軽い知的障害がある。仮に体罰で一時的に効果が見えたとしても相手は「痛い(怖い)から従う。痛く(怖く)なければ従わない」という処世術を体で覚えるだけ。

体罰肯定者は教育素人。まずは犬猫を叩かずに躾できるように、己を教育すべき。他人を教育するのはその後。

 

「悪いことをしたら痛い目に遭う、という因果応報を教える為にも体罰するのが親の役目」

子が悪いことをしたのはそれまでの親や教師の育て方が悪かったからであり、それこそ因果応報。親が育てたように子は育つ。子供のせいにするのは責任転嫁。体罰では「悪いことをしたから(痛い目に合う)」ではなく「バレたから(痛い目に合う)」を学習する。

 

「ここで拳骨を与えないと、この子はさっきの言動を反省しない」

拳骨でなければならない必然性はない。説諭力に欠け人間不信が昂じ精神的余裕のない者ほど即効性と安直さを求める。犬猫の躾ですら体罰は不要、人間なら尚更。それでも体罰を肯定する者には「相手が筋肉隆々の巨漢でも殴るのか」と質問すれば大概、黙る。結局は「自分に逆らわなそうな相手」を選んでいるに過ぎない。

 

「不良中学生が教師の目の前でタバコを吸っている。殴るのが教育」

傾聴力が欠如している。自己肯定感が低く自暴自棄になっている背景を探るため、まず耳を傾けるのが教育。殴ったところで隠れて吸うようになるだけ。

 

「忘れ物をした生徒を廊下に立たせた。何が悪い」

その主な動機が「自分の指示・命令が軽んじられた(指導力が無いと思われる)」と感じた教師による腹いせなので始末が悪い。忘れることは罪ではない。仮に忘れても自主的に生徒同士で貸し借りをさせれば、交渉力や思いやりやクラスの連帯感を育むいい機会にもなる。

生徒の殆どが忘れるなら、「忘れ物をしても殆どデメリットがない授業」をしている教師の授業力の問題。廊下に立ったところで忘れ物を回避する術を学習できる訳ではないので躾・教育になっていない。廊下に立たせることは子供の「教育を受ける権利」を奪うことにもなる。

 

「忘れ物をしたら体罰を与える、と事前に宣言したら忘れ物が減った。何が悪い」

「金を払わなければ人質を殺す」という誘拐犯等と同じ思考原理だから始末が悪い。教師がそのような理屈を是とすれば、生徒もその理屈を是とする人間に育つ。結果、その社会で脅迫犯・誘拐犯等が生まれる可能性を高める。

 

「遅刻したら放課後に校庭を3周走らされた。あれは体罰」

走ることが楽しいと感じる子供もおり、校庭3周をどう感じるかは個人差があるので一概に言えない。いずれにせよ走ったところで遅刻を回避する術を学ばないので意味がない。「遅刻しないための具体策」を連呼しながら机の周りを3周する方がまだ効果はある。

 

「宿題を忘れたので正座させた。これも躾のうち」

正座によって「宿題を忘れなくする具体的な術」を学ぶ者はいない。教育的効果は皆無なので1秒たりともする必要がない。長時間の正座に教育効果があるとすれば「長時間正座すると体にどんな影響があるか」を体験させる時だけ。

 

「国の指針では長時間の正座のみ体罰となっている。短ければ体罰ではない」

血管の圧迫により血栓が生じるリスクを考えれば1秒たりとも必要はない。

 

「何度注意しても授業中騒ぐのでガムテープを口に貼った。肉体的苦痛を加えていないので体罰ではない」

授業中発言する機会や授業妨害にならない程度のヒソヒソ話まで封じるので、過剰反応であり表現の自由の侵害。鼻詰まりを起こせば呼吸困難の危険性。ガムテに対するアレルギーを持つ子供もいる。服の上から貼るなら許容範囲。

 

「ちびデブハゲ死ねなど差別的な発言をした。言ったことには責任を取らなくてはならないから体罰した」

言葉狩りの典型。隠れて言うようになるだけ。解釈する自由にも責任は伴う。論拠詳細は当サイトの感情自己責任論を参照。

 

「1歳児が玩具を投げてガラスが割れた。ここで叩くのが躾」

物を投げて遊びたがる年頃の子供に「投げたら損害を生じる可能性のある堅牢な玩具」を不用意に与えた親の落ち度。叩いて1歳児が学習・認識するのは「投げると危険」ではなく「この人は自分にとって危険」である。体罰は常に「未熟な教育者による手抜き教育」の表れ。優れた親は、例えガラスが割れても己の至らなさをすぐに自覚・反省し、子供の腕力の成長を喜ぶ。

 

「2歳児がミニ自転車に乗って急に道路に飛び出し、車に轢かれそうになった。ここで叩いた親は立派」

交通ルールや危険性をまだ十分に理解できていない子供に自転車を不用意に与えた親の油断・不注意であり、子を叩くのは親の責任転嫁。叩かれることによって2歳児が学習・認識するのは「飛び出しは危険」ではなく「理由は良く分からないが怒られた」「親は自分をいきなり叩くことがある」という認識。「叩かれて自転車の危険性を習得する子供」はこの世に存在しない。

 

「3歳児が公衆の面前で駄々を捏ねて金切り声をあげた。周囲に迷惑なので背中を平手打ちしたら黙った。これは良い体罰」

鼻呼吸が可能なら口を塞げば音は漏れない。或いは手を引いて人の少ない場所へ移動すれば良い。そもそも普段の躾がなってない(子供の意見に耳を傾けず、体罰など安易な方法に頼っている)ので我儘に育つ。日頃の親の怠慢を子に転嫁するのは筋違い。なお金切り声を聞いてどれほど周囲が不快に感じたとしても、それは各人の自己責任なので気に病む必要はない。

 

「トイレ掃除させるのは体罰」

手指に傷があるのに無理にさせた場合等を除き、身体的な苦痛や危害は伴わないので懲戒の範疇。滅私奉公精神が発達した者・元々掃除が好きな者・屈辱を快楽に感じるマゾヒスト等にとっては懲戒ですらない。仮に精神的苦痛が生じたとしても本人の自業自得。

 

「自衛隊では体罰として腕立て50回させる。組織の連帯責任も養生できる。指導の一環として必要」

失敗した隊員が他の隊員から恨みを買う等するので逆に連帯感を妨害する(実際いじめが多くなる)。腕立てが100回できたところで実際の国防に関する職務遂行には役立たない。やり過ぎれば肘や肩を壊す。エネルギーと時間の無駄。

 

「引き籠りは無理矢理連れ出せば良い」

無理矢理連れ出すのは、心理戦・交渉術・説得力・忍耐力・包容力・教育哲学に乏しい者が、その無力さを責任転嫁するために行う偽善的愚策。

 

「戸塚ヨットスクールでは海に突き落としたりして引き籠りを矯正させた。よって体罰は有効」

前後即因果の誤謬、論理飛躍。引き籠りから抜け出せた原因は「周囲の人には難しいヨット操縦ができるようになったことにより自己肯定感が高まったこと」等であり、海に突き落とされたことではない。

 

「海に突き落とし溺れさせることで、ウィンドサーフィンの腕が上がった。つまり生産性が向上した」

これも論理飛躍。溺れることで恐怖心が植え付けられ、却って上達の速度は鈍る。またサーフィンは所詮レジャー・遊び・暇潰しの一手段。生産性を向上には、職業訓練や各種資格・免許の為の勉学の方が役立つ。

 

「海に突き落とし死の恐怖を体験させることで生への執着が芽生え、自殺願望が無くなった」

元々の自殺願望の原因となる考え・記憶が払拭・氷解した訳ではないので、単に”真の解決”を一時的・表面的に先延ばししたに過ぎない。

 

「体罰を加えると、子供は精神的に安定し表情が穏やかになる。大人が本気で自分を進歩させようとしている、と体感するからだ」

殴られたくないので大人しく振舞っているだけ。

 

「有形力を行使することによって子供を進歩させることを目的とするのが体罰」

有形力を行使することによって社会を進歩させることを目的とするのがテロリスト。つまり体罰はテロリズムの一種。

 

「体罰は、溺れている子供を助けるのと同じ」

溺れている子供に「さっさと泳げ」と殴るのと同じ。

 

「すぐにカッとなって大人をナイフで刺す者は、教育の失敗」

すぐにカッとなって子供を体罰する者もまた、教育の失敗。

 

「理性は社会性、本能は人間性。仏教や儒教は科学で、キリスト教は宗教」

理性は人間性、本能は動物性。仏教も儒教もキリスト教も宗教。

 

「とある音楽家が演奏会でビンタしようとしたのは、生徒が調子に乗っていたから。演奏を止めさせるには必要な処置」

体罰せずとも「両手首を掴んで制止し、尚も抗うならそのままの姿勢で起立させ退場」で対処可。日頃から手を出してるから、信頼関係が構築できず本番でああいう醜態を晒す事になる。髪の毛を掴んだ時点で暴行。

 

「タレントがキックボクサーから尻にタイキックを受けた。あれは暴行」

デコピンと同じ罰ゲーム。目的が余興であり教育・躾・指導ではないので、教育上の体罰に当たらない。受ける側が自由意志で許容・同意していれば無問題。

 

「お笑い芸人がプロレスラーに毎年ビンタを食らっている。体罰だ」

目的が視聴者への娯楽の提供でありプロレス等同様、余興の延長。教育・躾・指導が目的ではないので、教育上の体罰に当たらない。十分なインフォームド・コンセントがあれば無問題。但し当然、万一、障害が残れば傷害罪に問われ得る。

 

「金網デスマッチでプロレスラーが傷を負っている。あの体罰は正しい」

目的が集客・金儲けの興行・エンタ。教育・躾・指導が目的ではないので、以下同文。

 

「SMプレイで鞭打って血が出た。あれは体罰・傷害」

目的が性的快楽の獲得であり教育・躾・指導ではないので、以下同文。

 

「座禅を組んでたら警策(けいさく)で叩かれた。あれも体罰」

目的が雑念の払拭であり、以下同文。

 

「プロ野球で熱くなり乱闘になるのは真剣勝負で一生懸命やっているから。しょうがない」

それを見た子供が「自分もムカつくことがあったら相手を殴ろう」と、自制心・自己表現力の乏しい人格に育つ可能性はある。

 

「刃物を持った暴漢の手首を叩くのは体罰。躾の一環だから正当」

興奮しているので叩いたところで反省しないし、そもそも教育・躾をしている場合ではない。この場合、必要なのは緊急避難・正当防衛、取り押さえと安全確保。

 

「毎年恒例のマラソン大会。あれは体罰」

任意参加で歩くのも途中棄権も自由なら無問題。

 

「割礼やFGMは体罰ではない」

体罰より酷い虐待、悪習。

 

「部員が違法行為をした。けじめをつけるために一定期間、部活動を停止すべき。連帯責任」

時代錯誤な全体主義。無関係な部員の活動まで制限するのは、個と集団の区別のつかない大人のそれまでの指導不足・教育怠慢の責任転嫁・誤魔化しに他ならない。

 

「子供にクソババアと言われたら躾は成功」「父親は年頃の娘に嫌われるのが自然」「反抗期は誰にでもある」

人格が成熟している親は、子供に嫌われたり馬鹿にされたり反抗されたりしない。バカにされるのはそれなりに親自身の人格が未熟である証拠。

 

「何故殴られるのかを殴られる側が理解しているかどうかが大事」

殴られる側が理解して(自ら望んで)いても、暴力は暴力。殺される側が理解して(自ら望んで)いても嘱託殺人が殺人であるのと同じ。上記の主張は「何故殴るのかを殴る側が理解しているのかどうか」という視点が抜けている。

 

「体罰が駄目なら暴言しかない。感情は自己責任なので、暴言をどう捉えようと受け止める側の責任」

身体への暴力も精神への暴力も、根は同じ。暴言だけでも自殺を誘発する。だが感情自己責任論を年端もいかない子供に強いるのは酷。そもそも暴言を吐くこと自体が、感情に自己責任が取れていない証左。教育者の資格が無い。

 

「実地指導で体罰(肉体的暴力)が有効なので、通信教育で暴言(精神的暴力、言葉による体罰)もまた有効」

効果は皆無。暴言を吐かれた子供がそれを真似するようになるだけ。

 

「ここのサイト主は子育てをした経験がないから体罰の必要性が分からない」

対人論証。こう主張する者は、体罰の必要性がないと分かるまで子育てをしない方が良い。他人を育てる前に自分を育てるべき。

 

「ここに書いてあることについて、その信憑性を裏付ける引用元文献・書籍その他の参考資料やデータが示されていないので、信用できない」

と主張することで、具体的に反論できない自分を慰めているだけ。

 

「体罰者は体罰で更生すると言っているのだから、体罰者を体罰すれば良い」

体罰では更生しない。寧ろ隠蔽化・陰湿化する。暴力で暴力は無くならないのと同じで、体罰で体罰は無くならない。

 

「体罰した教員は二度と教壇に立たせるべきではない」

偽善的排他主義。本人が反省し体罰に依らない教育を実践できるなら問題ない。どうしても繰り返すようならまずカウンセリングを受けるべき。必要なのは処罰ではなく教育・治療。

 

以上、体罰不要論。以下、体罰以外の教育論。

 

「子供は学校に行く義務がある」

子供にあるのは「教育を受ける権利」。保護者に「子供に教育を受けさせる義務」があり、それが国民の三大義務の一つ「教育の義務」の意味。尚これは「学校へ行かせる義務」ではない。

 

「子供に教育を受けさせるために学校は必要不可欠」

必ずしも要らない。本当に必要な知識技能は社会生活の中で自然と身に付くし、資料など機会を与えれば各人の能力に応じて自学自習する。

情報化社会の今、優れた教材は巷に溢れ学習法も多様化しており、旧来型の画一的な教育法の時代的役割は最早終焉しつつある。

 

「先祖供養しないから子供が非行に走る」

子供が非行に走るのは単に「親が精神的に未熟(視野が狭い、学が無い、偏見持ち、言う事が矛盾している、我儘、内弁慶、外面が良い、過保護過干渉又は無関心放任主義、児童心理に疎い等)だから」である。供養しない程度で祟るなどという見解こそ、先祖を冒涜している。

 

「自由放任主義では子供は怠けるので、ある程度の基礎学力は強制すべき」

怠け遊びたがる、ということは勉強以外の体験をする(遊びながら学ぶ)時期だということ。一定の学力・見識を満たした者のみ適宜進級させ、能力に応じた権利を与えれば、社会からの評価や特定の資格の欲しい者は自主的に学ぶようになる。興味と意欲を持った者が何歳になっても自由に勉学できる環境整備こそ重要。

 

「一定の年齢になれば誰でも親になる権利・資格がある」

無制限に親の資格を与えるのは悪平等の典型。人格形成には児童心理学等に通じた専門家の見識が肝要。本来親になる資格の無い未熟者に育児をさせるから、間違った方法で育てられた子供が事件や事故を起こす。

 

「20歳になったら成人だ」「いや18歳だ」「不惑だ」「還暦でも子供ぢゃ」

肉体年齢で一線を画すのは悪平等の典型。成長のスピードには個人差があるので、公正を期するなら客観的に判定できる成人認定試験を設ければ良い。

適切かつ十分に訓練された者であれば、繁殖能力が身に付く頃(10歳前後)には精神的にも肉体的にも大人顔負けの働きをする。年齢に応じた全人格的教育を充実させ個々の成長の度合いに応じた適確な情報をバランス良く与えれば、8歳児でも精神的な成人と認めることは可能。「若過ぎる」と思う人は子供を過小評価しているか、さもなくば「適切で高度な教育手法を知らない」だけ。

 

「子供は子供らしくあるべき」

レッテル貼り・ステレオタイプの典型。

 

「現行の教育制度は万全」

教育は常に未完。21世紀初頭の現時点では、まだ内容が知識偏重でバランスを欠いている。 制定当時の国民が「欧米に追いつき追い越せ」「物質的豊かさが幸せの必須条件」と信じ教育行政に「即戦力のある人材の育成」を求めたため、経済産業分野に寄与する科目ばかりが重宝され、その結果人格形成に必要な知恵や哲学・宗教学・心理学・論理学・道徳・倫理といった「金にならない学問」は軽視されている。

一人一人の能力・素質に応じた教育を施せず、論理的思考力よりも素早い解答力、自己分析よりも因数分解、歴史のロマンよりも無機質な年号暗記を優先させており、その結果子供たちに知的好奇心を満たす楽しさよりも苦痛を強いている。

一部の子供は今でも「己に勝つ為の心構え」よりも「試験で他者に勝つ為のテクニック」、「生涯使える人生の知恵」よりも「受験時のみに使える小細工」の記憶に時間を割いている。効率性と詰め込みを是とした教育方針は各方面から問題視され長年の間に少しずつ変化してきたが、それでも少なからぬ大人が未だ「(大人にとって都合の)いい子」を大量生産しようとしている。

生まれ落ちて間もない年少者ほど、この世の歪みには敏感。根本的な知識や知恵に飢えた若者が固定化した社会通念に反駁し、心の隙間を埋めるように非行に走り新興宗教に嵌る。戦後の少年犯罪の多さ、70〜80年代の校内暴力や暴走族、90年前後の一連のオウム真理教事件などは、当時の大人たちの心のゆがみと世代間価値観の格差のひずみの象徴。

 

「完璧な制度など無い。一定の割合で不良品は出るもの」

完璧でないなら尚の事その割合を限りなく0に近づけることが大切。なお子供を商品化した「不良」という言葉を使うのは、その者自身が経済至上主義的価値観の下で育った証拠。

 

「受験制度が諸悪の根源」

制度は人の心が生み出した道具に過ぎず制度自体に罪は無い。それを利用する者自身の心(使い方)の問題。

 

「教員が足りない、教員を増やすべき」

忙しいと主張する者は、何でも一人で完璧にやろうとして時間の使い方や周囲の手の借り方や仕事の断り方が下手なだけ。どうしても足りない部分は、もっと地域社会に開放し最寄りの老人会のボランティア等で補えば良い。

 

「モンスターペアレントに対して訴訟を起こした教師がいる。けしからん」

当然の権利行使。

 

「読書感想文は不必要」

自分の考えを整理して言葉にすることは、自己表現力を養う良い機会。心に感じたことをどのように表現し相手に伝え得るかを他人に評価して貰うことで、分かりやすく説明する文章構成力を磨く訓練にもなる。これを無くせば表現力が稚拙でコミュニケーション能力が貧弱な大人が増え、無用なトラブルの元となる。

 

「幼児期から外国語学教育すべき」

早期教育は有意義であり、数カ国語話せることは確かにそれだけ人間の幅と視野とチャンスを広げる。

しかし言葉は所詮道具。本当に大事なことはそれを操るテクニックよりも「相手の立場を思いやる気持ち」「相手に伝えようとする努力」。愛があれば言葉が無くてもジェスチャーで通じる。旅行が目的ならベーシック英語だけで十分。

今後はネット上の翻訳機能やポータブル翻訳機が発達するので、他国語言語能力の価値は下がる。あまり使う機会のない技能を習得するよりは、母国語や論理的思考力その他に力を注いだ方が得策。

 

「痴漢の被害に遭う確率が高まるので、下着は白のみとすべき」

白に欲情する痴漢もいるので意味がない。このようなルールは犯罪者痴固有の問題を属する集団の問題に拡大解釈した論点摩り替えであり、事勿れ主義・全体主義。痴漢に遭った時の対処法を細かく教える方が遥かに有意義。

 

「恋愛は禁止。妊娠した生徒には自主退学して貰う」

根拠薄弱なブラック校則で恋愛や妊娠を禁止にするのは、教育機関の責任放棄・自殺行為・自己矛盾。無能教育者の怠慢・差別。妊娠した生徒をクラスで支援するのも貴重な学習機会。新たな命を祝福できないのは、民度の低い集団の能率主義・事勿れ主義。

 

「子供の食べ物の好き嫌いが激しい」

多くの場合、単に親の料理が下手なだけ。子供は自分の体に何が必要で必要でないかを本能的に見極める。子供が欲しがる栄養素はその子の生育にとって必要なので、疾病でもない限りなるべく与えた方が良い。食べたがらないものを無理に食べさせるのも虐待の一種。

 

「偏食は良くない」

一般論としてはその通りだが、必要な栄養素は個体差があり、多くの場合(おいしいと感じることで)選別する。特定の病状を緩和するために特定の食材を食する者もいれば、ジャムパンや赤土だけで全ての栄養素を賄える人間もいる。

 

 

 

Ⅱ 法律ルール礼儀作法マナー

 

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「法律は絶対」「法律は正しい」

法律とはその時代の権力者が決める、場所や時代と共に変わりゆく相対的なもの。常に正しいとは限らない。

 

「挨拶しない子供には、挨拶するよう徹底的に指導すべき」

挨拶はそこに愛や信頼があれば自然と生じる態度・挙動であり、強制や押し付けは本末転倒。

挨拶の強制は「自分が相手から信用・敬愛されてないという事実」を隠す自己欺瞞。挨拶を強要すると、子供の微妙な心の変化を察知できず問題の発覚や健康管理の対応が遅れがちになる。

 

「挨拶しないのは失礼」「目上の人は無条件で敬うべき」

そう思い込んでいる者ほど、挨拶されないと自分が軽視されたように感じるので、その情緒不安の解消と自己防衛の為に挨拶を強要する。

先輩が後輩に強要するのも同様の心理で、「挨拶されない自分は他の先輩より慕われていない」などと嫉妬や負い目を感じ自己嫌悪する。精神的弱さの裏返し。

 

「親しき仲にも礼儀あり(諺)」

礼儀が必要だということは、さほど親しくないということ。

 

「正しい日本語は唯一つ存在する」「正しい日本語を使うべき」

言葉(概念)は道具に過ぎず、場所や時代と共に移り変わり変化し真逆の意味になることもある。1億人の日本語利用者がいれば1億通りの日本語があり、それぞれが各々にとって正しい日本語。

 

「○○という日本語は、20%の人が間違った使い方をしている」

20%が相互意志疎通が取れているなら、20%の人にとっては正しい使い方。

 

「新聞記事や辞書や法律は、他の人間も共有するのだから主観ではなく客観」

それらには記者や編者や法律家個々人の主観が反映されている。それを共有するしないを決めているのは個人の主観。客観とは「共有された主観」に過ぎない。人は自分の主観に自信がなくなった時ほどそれを客観化(一般化)したがる。

 

「見れる、来れるは正しくない。見られる、来られるが正しい」

ら(厳密にはar)抜きは言語学上、正しい略し方。情報化社会では言語の進化・簡略化が促進される。頭の堅い者がその変化に付いていけず、違和感を覚えているに過ぎない。

 

「“お子様ランチお一つで宜しかったですか”“こちらお子様ランチになります”という言い方が気になる」

固定観念・自分ルール・思い込みに囚われている証拠。

 

「突き箸、指し箸、迷い箸・・」

気になるのは愛が無い証拠。

 

「人を指で指すのは失礼」

同上。

 

「施しを受けたのなら一言お礼を言うのがマナー」

何であれ期待は期待する側の勝手自由なので、不快になっても自己責任。

 

「後の人が気持よく使えるように、トイレはちゃんと流すべき」

流さないのは他人の心情を思いやるだけの心の余裕が無い証拠。そんな相手の立場を思いやれないのもまた心の余裕が無い証拠。「なんて思いやりのない人だ!」は典型的な”自己投影による同属嫌悪”。

 

「後の人が気持よく使えるように、トイペは端を三角形に折るのがマナー」

偽善。用を足したその手指で折ったことを不快に感じる人もいるので、折らないのがマナー。

 

「仕事をサボっている、手を抜いている」

体調が悪いのも視野が欠けているのも何度諭しても理解しないのも、いずれもその人の個性。

 

「頑張ってくださいと言われる。じゃあ頑張ってないように見えるのか」

二元論的解釈、白黒思考、誤った二分法。ただの社交辞令を文字通りに受け取るのは、心に余裕がないか解釈の仕方に問題がある証拠。

 

「電車で赤ん坊がうるさい」

そう思う者が距離を取るか耳栓するかあやせば良い。赤ん坊は泣くのが仕事。

 

「電車内で騒ぐ子供は親が躾けるべき」

子供は社会全体で養い教育し躾けるもの。「躾のできない親」は「躾のできない自分」の投影。人は鏡。

 

「電車内では寝る人もいるのだから携帯で話したり騒ぐのはマナー違反」

寝台車は別として電車は移動の手段であり「寝る場所」ではない。自分が寝るから静かにしろ、というのは我儘。従って、例え相手が子供でも「注意ではなく依頼する」のが本当のマナー。

 

「電車内でお喋りするのも旅の楽しみで自由だから、寝る人の事情など無視して良い」

中には具合が悪くなって眠りたい人もいる。自分たちさえ楽しければ良いというのは思いやりに欠けている。

 

「寝たくても我慢すべき」

寝たいなら寝ればよい。周囲が五月蝿いなら依頼して静かにして貰えば良い。寝るのも静かにするよう依頼するのも個人の自由。なまじ我慢すればそれだけトラブルに発展しやすくなる。試されているのは当事者のコミュニケーション能力や問題解決力・自己表現力・傾聴力・共感力。

 

「静かにするよう依頼されたが、喋りたいから喋る。表現の自由」

相手の自由を侵害するので自由ではない。小声で話す、筆談する、メールで話す、場所を変える、など対策は幾らでもある。

 

「子供が騒いでいたら怒鳴って一喝すれば良い」

呼び止めて目を見て相手が分かる言葉で諭すのが筋。如何なる幼子であっても一人の人格。怒鳴りたくなるまで我慢すること自体がコミュニケーション能力欠如の表れ。そんな幼稚な自己主張をする大人を見た子供は「怒鳴る大人の前では大人しくしよう」という狡猾さと「気に入らない事があればああやって怒鳴れば良い」という浅知恵を観察学習する。

 

「席を譲らない若者を見ると腹が立つ」

譲って欲しいと依頼すれば良いだけの話。それができない己の無能さが、怒りの原因。

 

「電車内で化粧やキスをするのは、はしたない」

表現の自由。見たくなければ見なければ良い。公共の場での表現の自由の範囲は、民度が高まれば拡大する。

 

「電車内でキスやセックスするのは公然猥褻罪」

現行法では罪になっても、社会の意識が変われば罪にはならなくなる。勿論、駅員や警察に通告するのも現行犯逮捕するのも表現の自由。

 

「コンビニの前に不良が屯っている。邪魔」

邪魔ならそう伝えれば良いだけの話。それができない己の無能さ(相手に対する想像力や勇気のなさ)が「相手の無能さ(他者に対する配慮の無さ・マナーの悪さ)」を映し鏡として見えているに過ぎない。自己投影。人は鏡。

 

「客のお陰で経営が成り立つのだから、客はコンビニの店員に感謝する必要はない」

持ちつ持たれつ。「この場所に店を構えて貴方が働いてくれた御蔭で今こうして欲しい物を手に入れる事ができた」と感謝してお金を払うのが当然。踏ん反り返るのは経済観念の未熟な勘違いした客だけ。

 

「車椅子用スペースに健常者が停めているのがイライラする」

車椅子用スペースに車を停めるのは、その人が周囲に配慮する精神的余裕・他者への理解力・想像力に欠けている証拠。つまり広義の認知症・人格障害なので、ある意味「障害者用スペース」を利用するに相応しい身分。「心無い(多忙な)人もいる」と寛容できないのもまた適応障害のうち。

 

「前の車が遅い。イライラ」「ウィンカーを出さずに右折した。イライラ」「煽ってくる。イライラ」

心に余裕が無い証拠。

 

「お巡りさんに青切符を切られたら反則金を必ず支払わなければならない」

裏に記載されている通り、支払いは義務ではなく任意。余程悪質なケースでない限り、催促を無視し続けても殆どの場合、不起訴処分になる。但し、不払いの記録は半永久的に警察内に残る。

 

「事故れば自業自得なのだから、シートベルトの義務化はおかしい」

停車中でも貰い事故で車外に放り出され二次災害を誘発する危険性がある。傷害や後遺症を負えば保険会社や国家社会にとって損失なので、自業自得では済まされない。

 

「赤信号は危険、青信号は安全」

青でも危険。信号は判断基準の一つの目安に過ぎず、危険度は周囲の状況から自分自身の目や耳で判断すべき。ルールさえ守れば安全という観点は却って油断を招く。

 

「車の往来が全く無くても、信号は常に守るべき」

ルールの目的を理解していない頭でっかちな発想。車が全く通っていないのに律儀に守るのは「バカ正直」。信号機は「危険の度合いを自分では判断が出来ない者」のための一手段。活用するかどうかは利用者の自由で自己責任。

 

 

 

Ⅲ 交通事故の原因

 

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※以下、趣旨は交通事故に限らず全ての事故・過失に適用されます

 

「交通事故の未然防止の為には厳罰化が必要不可欠」

事故の原因は「運転者に知識・経験・想像力が足りず、正しい状況判断ができなかった」ことにある。過失の場合、加害者は事故前に自分が事故を起こすとは思っていないので、「これで人を轢いたら懲役7年ではなく20年だ」という認識も無い。 従って厳罰化は未然防止にならず、却って「事故後の隠蔽・逃亡」を誘発し、救える命も救えなくなる。他の犯罪同様、加害者に必要なのは処罰や非難ではなく教育や治療。安易な厳罰化は偽善的自己満足の最たるもの。

 

「厳罰化により飲酒運転は減っているのだから、厳罰化には抑止効果がある」

前後即因果の誤謬、原因帰属錯覚。飲酒運転が減ったのは厳罰化そのものではなく「厳罰化されたことが広く報道され、職場等での周知・教育が行き届き、飲酒運転を戒める機運が高まった」ため。 つまり「情報共有が原因」。誰も厳罰化の事実を知らず注意も払わなければ何も変わらない。死刑や核兵器同様、抑止しているのは常に、法やモノではなくそれに関連する知識・教育に裏付けされた想像力。赤ん坊に拳銃の脅しは効かない。

 

「赤信号を守ってないから事故った。事故の原因は信号無視」

原因は信号無視ではなく「運転者が正しい状況判断が出来なかったこと」にある。信号が赤でも他に通行者がいなければ事故は起こらない。目の前に歩行者がいれば例え青でも「信号無視して」止まるのがルール。臨機応変に考えず守りさえすれば良いという発想は、ルールの存在目的を見失っている(手段の目的化)。

 

「歩行者が赤信号を渡っていたから車に轢かれた。事故の原因は歩行者にある」

車道用の信号が青でも歩行者がいれば止まるのが正しい判断であり、ルール上もそうなっている。止まっていれば事故は起きていない。事故の原因は状況判断を誤ったドライバーにある。

 

「歩行者が赤信号を渡っていたことも事故の原因の一つ」

「赤信号を無視した原因」は歩行者にあるが、ドライバーが正しく状況判断して停止していれば事故は起きない。誰しも判断能力には限界があるので、後は程度問題により過失相殺される。例えば統計的に100%のドライバーが避けようのない速度で歩行者が道路に飛び出して来たのであれば、歩行者に100%原因があることになる。

 

「スピードの出し過ぎは事故の原因」

時速1kmでも事故は起こる。時速300kmでも事故が起こるとは限らない。スピード超過は「事故の原因」ではなく「判断力低下を招く原因」或いは「事故発生時の損害の重大化の原因」。

 

「スピードの出し過ぎでネジが緩んで事故になることもある」

その場合、事故の原因はネジの緩み。速度を上げて何か問題が発生したなら、車体の構造上の欠陥が原因。速度はその欠陥を表面化した端緒・切欠に過ぎない。

 

「スピード違反は事故の原因ではないので、取り締まらなくて良い」

上述通り発生の確率を高め、重大化にも繋がるので取り締まるべき。勿論、速度超過の原因は「焦燥感・心の余裕の無さ」即ち一時的精神疾患であり、適切な教育・治療・矯正を要する問題で、決して「取り締まれば一件落着」ではない。だが現実には大概、取り締まるだけで終わるので問題解決にならない。つまり取り締まりの目的が事故削減ではなく、反則金や罰金の徴収になっている。

 

「飲酒運転で事故った場合、事故の原因は飲酒運転」

原因は「飲酒運転」ではなく「運転者が正しい状況判断が出来なかったこと」にある。自分がどの程度のアルコール摂取で正しい状況判断ができなくなるかを見分けることも、状況判断のうち。

 

「飲酒運転しなければ事故らなかった。飲酒運転が原因」

詭弁。前後即因果の誤謬の典型。飲酒運転しても必ずしも事故らないし、飲酒してなくても事故ることはある。飲酒運転は「事故の原因」ではなく「(事故に繋がるような)判断ミスを誘発した原因」。真に取り締まるべきは、判断力の乏しい者に無差別に運転の機会を与える人命軽視で経済優先に立脚した安直な制度そのもの。

 

「業務多忙で居眠り運転して事故った。事故の原因は会社にある」

その場合、会社にあるのは「事故の原因」ではなく「従業員の体調管理を怠った原因」「想像力の欠如した者に運転させた原因」など。事故の原因は「体調管理ができなかった運転者本人」にある。

 

「車製造会社が欠陥車を作らなければ事故らなかった。事故の原因は欠陥車を作ったメーカー」

明らかな不良製品の場合はその通りなので、メーカーはリコールする義務がある。但し、事故の原因の大半は運転者が「正しい状況判断が出来なかったこと」。日頃から点検整備を怠らないのも、不具合がないか見極めるのも、走行中異常を感じたら適切に対処するのも、状況判断のうち。

 

「事故の原因は運転者にあるので、欠陥車を作ってもメーカーに責任は無い」

適正に使っているにも関わらず事故が起きた場合はメーカーに原因がある。仮に「事故の原因」がなくとも「安全性に問題のある欠陥車を製造した原因」があるので製造者責任は問われ得る。

 

「煽り運転され恐怖で事故を起こした。事故の原因は煽った車にある」

唐突に幅寄せされるなどされ反射的にハンドルを切ってしまうケースは別として、通常は適切な対処をすれば事故に至らない。恐怖や驚愕自体はそれを感じる者に原因がある。論拠詳細は感情自己責任論を参照。

 

「パトカーに追跡され恐怖で事故を起こした。事故の原因はパトカーにある」

パトカーが煽り運転をしていればその通りだが、そもそも指示通り停止すれば事故に至らない。恐怖自体は、以下同文。

 

「アレが無ければ事故らなかった。事故の原因はアレ」

事故の原因は「運転者が正しい状況判断が出来なかったこと」。アレが「悪天候」や「ドライバーの寝不足」や「心臓発作」や「子供の飛び出し」や「ブレーキの故障」であっても、本当の原因は「判断力の欠如」。

 

「全てを運転者個人の原因に矮小化する事は、問題の解決にならない」

ここでの論点はあくまで「事故の原因」。原因が運転者にないとすれば、それは「運転者が未熟な原因」「未熟者に免許を与えた原因」「欠陥車を売った原因」など、「事故の原因」とは別の原因である。これらは、教育や免許制度や製造者に原因・責任がある。

 

 

「検討中思索中勉強中休憩中勘案中募集中待機中」

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