恋愛・結婚・愛・悟り・性風俗・性教育・障害に関するよくある勘違い

恋愛・結婚・愛・悟り・性風俗・性教育・障害に関するよくある勘違い

 

Ⅰ 恋愛       ※恋愛は自由。義務ではない(•̀ᴗ•́)و ̑̑

Ⅱ 結婚       ※結婚を焦るのは精神的に未熟な証拠(・ー・)

Ⅲ 愛        ※本物の愛は無償・無条件・無制限(^_^)

Ⅳ 悟り       ※煩悩と悟りは表裏一体₍₍ ◝(•̀ㅂ•́)◟ ⁾⁾

Ⅴ 性風俗・性教育  ※低水準な性教育を受けた人ほど偏見を持つヽ(•̀ω•́ )ゝ

Ⅵ 障害       ※全ての障害は個性(゜_゜)

 

 

 

Ⅰ 恋愛に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP    

 

「吊橋でのドキドキと恋のドキドキは別物」

どちらも「自己存在価値の喪失に対する恐怖心」が原因で同根。吊橋等での高所恐怖の原因は建造者への不信や生への執着、即ち愛の欠如。恋の相手への「神々しい理想の偶像の前で相対的に自分の存在価値が失われる恐怖」も自身への不信感(自信のなさ、自己愛の不足)が原因。

トラブルに巻き込まれたり大勢の人の前で話す際の緊張等も同じメカニズム。愛を知らず愛が不足している者は、愛を知るために愛を満たそうとする。

 

「男女間の友情はあり得ない」「男は絶対浮気する」

と主張する者の人生経験が浅いだけ。「早まった一般化」という詭弁の典型。

 

「人は恋愛しなければならない」

いわゆる恋愛症候群。恋愛は義務ではない。その体験が必要な者は、自然と恋愛する。恋愛していないということはその必要が無い、或いは「恋愛しない(できない)という体験」が必要、ということ。このことは恋愛に限らず結婚その他あらゆる体験に言える。

 

「一度に一人としか付き合ってはいけない」

何人と付き合うかは個人の自由。

 

「恋人(結婚)ができないのは自分が不細工だから」「不細工は恋人に巡り合い難い」

多くの場合、そうした卑屈な性格に問題がある。どんなブスでもブオトコでも、恋人がいる人はいるし結婚する人は結婚する。論点のすり替え。

 

「見た目がキモイから、と振られた。振られた原因は自分がキモイから」

振られた原因は「相手の心が貧しい(精神的に未熟だ)から」。未熟者ほど外見に拘る。

 

「背が低いから、と振られた。振られた原因は自分の背が低いから」

振られた原因は「相手の心が貧しい(精神的に未熟だ)から」。未熟者は対外評価を気にする。

 

「部落出身者だから、と振られた。振られた原因は自分が部落出身者だから」

振られた原因は以下同文。

 

「差別や偏見のせいで結婚出来ない」「親が反対するから結婚できない」

周辺の反対があっても、恋人がいる人はいるし結婚する人は結婚する。愛が中途半端なら周囲の評価や影響に左右される、というだけの事。

差別や偏見のせいにしている人は「自分たちの愛が実はさほど強くはないという現実」を認めたくないが為に、他者に転嫁しているだけ。

親が反対するからできないのは未だ親離れ出来ていない(未熟である)証拠なので、自立して判断力が身に付くまでは結婚しない方が良い。

 

「この世は外見を気にする人間ばかり」

心理学でいう自己投影。「世の中こうだ」という本人の固定観念が具現化しているだけであり、外見を気にしているのはそう思っている者自身。外見を学歴、家柄、年収などに置き換えても同じ。

 

「人間の価値は容姿だけでは決まらない、というのは綺麗事」

「容姿で決まる」こそ文字通り綺麗事。

 

「容姿が悪いから鬱だ。人生オワタ。死にたい」

必要以上に自己卑下したり自信喪失したり自己嫌悪に陥るのは、未熟者の対外評価を真に受けてその幼稚な固定観念に囚われている証拠。大事なことは、己の内面(精神)を磨くこと。

 

「自分が性格ブスになったのは、外見ブスに生まれたことが原因」

外見がブスでも心の清らかな人は大勢いる。本当の原因(己の性格・内面)を変えずに済むようにするための言い訳・逃げ口上・現実逃避。

 

「容姿が良いのは一つの才能。容姿が悪いのは才能がないということ」

ルッキズム(外見主義)の典型。不細工な人は「外見主義者の本質を暴く能力」がある。また外見主義者に冷遇されることで「人を見る目」も鍛えられる。

チヤホヤされ甘やかされると人を見る目が鍛えられなくなるが、冷遇された人はそれだけ他人の苦しみへの理解力や想像力、本質を見極める能力が鍛えられる。

 

「美形は何もしなくても愛されるから得。醜形は何もしなくても嫌われるから損」

何が損で何が得かは、どんな観点で見るかによって変わる。比較的「安心感を与える顔立ち」と「不安感を与える顔立ち」がありそれが周囲からの待遇の差となって 人格形成に影響を及ぼすことがあるのは事実だが、「愛されたい」「嫌われたくない」「お金が欲しい」という“エゴ”に執着しなければ、見た目の美醜は人生において大した損得を齎さない。

 

 

 

 

Ⅱ 結婚に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP    

 

「結婚は自然の摂理。結婚しない者は自然の摂理に反している」

結婚そのものは人間が考え出した制度であり人為的システム。

遺伝的に遠い相手に惹かれたり、一度セックスした相手に性的魅力を感じなくなったりする事は自然。集団で社会生活を営む人間が「死ぬまで一人の相手としかセックスしない」ことの方が、生物学的に不自然。

 

「死ぬまで一人と連れ添う人が一番多い。多いという事はそれが自然だということ」

多数論証な上に因果が逆。一夫一妻制が多いのでそれが多くなるというだけの話。

 

「父親・母親が合わせて5,6人もいる家族なんてあり得ない。そんな家庭で育った子供はグレる」

と主張する人の頭が固いだけ。より多くの大人に育てられ多様な価値観の中で育った方が、それだけバランスの良い優れた人格が形成される。実際、数少ない(しかも頭の固い)親に育てられた子供ほど、グレる確率が高くなる。

 

「人間は結婚して一人前」「子育てして一人前」「いや離婚して」「いやいや再婚」

いずれも半人前。最初から一人前なら、結婚も子育ても離婚も再婚も経験する必要がない。その人が「それらを経験しなければ半人前だから」経験したのである。

 

「子育てしないと社会貢献にならない」

「子育て以外では大した社会貢献が出来ない人」にとってはその通り。社会貢献の形態・手段は様々あり、人によっては育児に時間と労力を奪われる事が却って社会貢献の障害になる場合もある。

 

「結婚・子育ては万人にとって人生の目的」

結婚や子育ては手段であり目的ではない。何が人生の目的かは主観で決まる。その手段が必要な人にとっては必要だというだけの話。

 

「結婚の目的は子を産み育てることにある」

結婚しなくても子供は授かるし育てられる。結婚は法的に優遇される分、「子育てを楽にする手段」の一つに過ぎない。また子供を授かることは「結婚の目的」ではなく「セックスの結果」に過ぎない。子を儲けることを目的に結婚やセックスをするのは本末転倒。

 

「子を産む目的でないならセックスしてはならない」

「手段の目的化」の代表例。元々性行為の目的は「愛の相互確認」であり、セックスはその手段の一つ。受精は結果に過ぎない。

 

「デキちゃった結婚は宜しくない」

寧ろ本来の結婚の在り方。結婚してからでないとセックスできない、とする方が形式的・人為的で不自然。

 

「望まれない子ができたら堕胎してよい」

胎児も(母親に寄生しながらも)生きている。仮に法律上は殺人ではなくとも、実質上は殺人。親に育てる能力・気力が無いなら、社会全体で可能な限り補助・育成すべき。育児に困惑する親の存在は、その社会の福祉制度の未熟さの表れ。

 

「自分のDNAを残そうとすることは自然」

自分のDNAに拘るのはエゴ。自分が残さなくても近しいDNAを持った誰かが近いDNAを残す。己のDNAに執着したところで、家族諸共事故等に巻き込まれればそこで途絶える。

 

「子供は多い方が良い」

「産めよ殖やせよ地に満ちよ」「人口こそ国力」という浅ましい価値観は、為政者が自らの富のために好むスローガン。概して民度(精神的自立度)が低く進化していない生物ほど、産み落とす子の個体数は多くなる。

 

「少子化が進んでいるのだから子供を生むべき」

21世紀初頭、世界的には人口爆発している。国内事情だけで判断するのは視野狭窄。

 

「少子化は憂うべきこと」

多死多産でないことは社会の成熟の表れであり、寧ろ喜ばしい現象。

 

「昔は兄弟が6人や7人いて当たり前だった」

それだけ異常な時代だったということ。

 

「結婚は人生の一大イベント」

紙切れを役所に提出するだけ。宴や儀式はただのエゴ・自己満足。

 

「誰でも結婚する義務がある」

義務ではなく権利。結婚とは未熟な社会が税制面で優遇する代わりに「配偶者や子の扶養義務を世帯主に押し付ける」ための制度。その後起こり得る「未熟な両親に子育てをさせた結果責任」は社会が負うことになる。

 

「子供は親のモノ。産んだ親に育てる責任がある。社会が親の教育方針に口を挟むべきではない」

子は人類の宝であり、親の所有物やペットではない。児童心理学や教育学の基礎すら知らない無能な親が育てるよりも、専門知識と知恵のある者が育てる方がバランスのとれた人格形成が期待できる。

 

「結婚・子育てしないと幸せになれない」

何が幸せかは個々人の主観によって決まる。結婚しない方が幸せな人もいれば、子育てして不幸になった人もいる。どちらも幸せの必須条件ではない。

 

「独り暮らしは寂しい」「恋人がいないと寂しい」

何を寂しいと感じるかは個人の主観。「自由気ままにやりたいことができて恋人も取っ替え引っ替えして毎日が充実している」という人もいる。恋人がいないということは恋人が必要ないということ。 寂しさが払拭できないとしたら、無趣味で友人が少なく時間の使い方が下手か、自分を十分愛せていないか、さもなくば人類愛に目覚めていない証拠

 

「家族の連帯感が損なわれる為、夫婦別姓にすべきでない」

連帯感は各人の心の持ちよう如何で決まる。全員が同姓でもいがみ合う家族もあれば、別姓でも仲のいい家族もある。

別姓にした程度で損なわれる連帯感なら、最初から所詮その程度の結束力しかなかった、というだけのこと。

 

「子供がいじめられるから、離婚や夫婦別姓をすべきでない」

離婚していても夫婦別姓でもいじめられない子供は幾らでもいる。逆に離婚していなくても夫婦同姓でもいじめられる子供はいる。この手の主張は、いじめに上手く対処する術を知らない大人が面倒を回避する為に使う口実に過ぎない。別記「人権侵害に関するよくある勘違い」参照。

 

「浮気・不倫は悪い事」

良いか悪いかはその程度も含め個人の主観。既成の貞操観念に拘らず、結婚後も自由恋愛を互いに認める夫婦も実在する。

 

「結(離)婚しないのは決断力がない証拠」

愛する(憎む)者同士が寄り添う(離れる)のは自然なことであり、本来、結(離)婚に決断力は必要ない。決断力を要するような結(離)婚は、どこかで無理をしているか、まだ迷いがあるか、体裁や世間体を気にしているか、さもなくば結婚そのものを目的化している証拠。

そもそも何が結(離)婚の基準かは個々人によって異なる。判断材料が不足した状態での選択はただの妥協や打算や現実逃避であり、「決断力がある」とは言わない。

 

「離婚は恥・不幸」

離婚をすることがお互いや子供の幸福に繋がることもある。馬の合わない相手といつまでも共に暮らすことの方が余程不幸であり、世間体を気にして体裁を取り繕う方が(自立心の低さの証明になり)余程恥ずかしい。

啀み合うばかりで仲良くなれない者同士は、無理して同じ場所に住まない方がよい。偽善的な平和主義者ほど「みんな仲良く暮らすべき」と理想論を宣う。

 

「性別には雄と雌、男性と女性しかない」

環境や成長により性別が変化したり雌雄同体、両性具有がある。体の性もまた遺伝子レベルで様々(XXX、XXY、XYYなど。Y染色体の長さも人それぞれ)。

 

「性指向には異性愛と同性愛と両性愛しかない」

両性愛(男性的な男性と女性的な女性に性的魅力を感じる)の他に中性愛(男性的な女性や女性的な男性に)、全性愛(左記のいずれにも)、無性愛(人形や動物や建造物等に、或いは性的欲求が無い)がある。

 

「性は、体の性と心の性がある」

「体の性」「心の性(性自認)」「性欲の対象(性指向)」が上記各種にそれぞれの組合せがあり程度問題。個々人によって千差万別で年齢や環境によっても変わるので、セクシャリティは人の数だけある。

 

「同性婚・一夫多妻・多夫一妻・多夫多妻制を認めるべき」

社会が成熟し高水準な性教育が普及すれば多様性に寛容になり自然と認める方向に向かうが、本来互いに愛し合うなら一緒に住んで寝食を共にすれば良いだけのことで、わざわざ制度に縛られる必要はない。

 

「女は30過ぎたら羊水が腐る」

自虐ネタか毒舌ジョーク、さもなくば無教養アピールに過ぎない。真に受けて憤るのはユーモアのセンスが欠如している。

 

「純血を守るため同じ民族同士結婚すべき」

幼稚な血統主義・民族主義。生物学上、血縁関係が近い者同士の広義の近親相姦が繰り返されれば、遺伝的多様性は失われ姿形が似通い病弱体質になり知能も低下する。健康で丈夫な子供を儲けたいなら、遺伝的に遠い者と結婚した方が良い。

 

 

 

 

Ⅲ 愛に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP    

 

「言葉が無ければ愛は伝わらない」

元々何も必要としないのが愛。愛に言葉も不要。そこに真の愛があるなら、態度や仕草や表情だけでも伝わる。言葉を介さなければ伝わらないなら、互いがまだ分かり合えてない(愛に満たされていない)証拠。

 

「束縛するのは愛の証」

信頼がない、自信がない、愛がない(不足している)証。本物の愛は束縛(を必要と)しない。

 

「愛すればこそ期待する。期待するのが愛」

期待はエゴの表れであり愛不足の証拠。「愛すればこそ相手の期待に応える」とは言える。

 

「愛があるから結婚する」

寧ろ愛を「確かめる」ために結婚する。わざわざ確かめなければ感じられないのは、愛が不足している証拠。

 

「愛とは誰かに必要とされること」

愛とは「何も必要としないこと」。従って「誰かに必要とされること」も必要としない。何かを必要とするならそれは依存・エゴであり、愛あるが故ではなく寧ろ愛が不足しているため。

愛は「慈悲」「悟り」「無知の知」「吾唯知足」「仁」と同義。独善や偏見や差別、その他あらゆるこの世の諸問題の根本原因は「無知の無知」即ち「愛の不足」に収斂する。つまり愛こそ全て All you need is love。

 

「誰かを愛するためには条件が要る」

愛とは本来、無条件。「容姿端麗であれば愛する」「経済力があれば愛する」「血が繋がっていれば愛する」「浮気しなければ愛する」「自分を愛してくれるなら愛する」等は全て条件付き(有条件)の愛、 即ち自己愛(エゴ)。エゴに執着すれば条件を満たさない限り対象や自分を愛せないので、満足を得る為に他人を犠牲にすることが多くなる。

 

「人為的な愛情もある」

有条件の愛についてはその通りだが、本当の愛(無条件の愛)に観念は介在しない。

 

「自己愛の強い人間は自己中な行動を取る」

問1 自己中心的な人間は「自己愛が強い人」だろうか、それとも「自己愛が弱い人」だろうか。

問2 自己中な言動を正すには、その人から「愛を奪う(認めず、許さず、否定する)こと」が正しい対処だろうか、それとも彼らに「愛を与える(認め、許し、肯定する)こと」が正しい対処だろうか。

こうした質問をすると「1も2も前者」と答える人が多い。

しかし本当は、自己愛が足りない(まだ自分を十分愛せてない即ち自愛心・自尊心が弱い)からこそ、他人より自分を優先する言動を取るので、その結果「自己愛(への執着)が強いように見える」のである。

よって彼の自己中を正したいと思ったら、彼に「愛を与えること」が問題解決に繋がる。もし「愛を奪え」ば、彼は愛を欲してますます自己中になる。

従って自己中心的な言動をする人に対しては「この人は未だ十分に自分を愛せてない」と思いやって、可能な限り彼に「愛を与える」のが正しい。周囲がその行動に至って初めて、本人の心の中に変化が生じる。

 

「自己中は自己愛が過剰である証拠。甘やかすから自己中になる」

上述の通り、自己中心的行動は自己愛の不足の現れ。甘え足りないから自己中になる。自己中な人間に対する不寛容も自己中の一種、投影による同属嫌悪。

 

 

−愛が足りている徴候−

慈しみ、利他、真実、知、無知の知(悟り→謙虚)、思いやり、共感、肯定、区別、関心、情報を共有する

自由、無制限、無条件、喜び、癒し、創造、自己存在価値の向上、憧れ、自然、円滑

快感(優越感、充実、満足、安心、一体感、自愛心、誇り、爽快)、サービス精神が旺盛

一つになろうとする(同化、一体化)、エネルギーが溢れる感じ、高揚感、兼愛

包み込む、受け入れる、与える、解放する、許す、誉める、祝う、できる、尊敬する、生かす、信じる、感謝する

 

−愛が足りていない徴候−

憎しみ、利己、不実、無知、無知の無知(煩悩→傲慢)、思い込み、反感、否定、差別、無関心、情報を遮断する

不自由、有限、条件付き、悲しみ、蔑み、破壊、自己存在価値の低下、嫉妬、不自然、摩擦

不快(劣等感、焦燥、不満、心配、疎外感、自己嫌悪、惨め、緊張)、サービス精神が乏しい

バラバラになろうとする(異化、分離化)、エネルギーが失われる感じ、挫折感、別愛

突き放す、排除する、奪う、抑制する、罰する、貶す、呪う、できない、軽蔑する、殺す、疑う、怨嗟する

上記に加えて不自然に(故意に)−愛のしるし−を得ようとする行為

 

 

 

 

Ⅳ 悟りに関するよくある勘違い

 

HOME    TOP    

 

「人は悟ると感情を表に出さなくなる」

元々周囲の状況に左右されやすく感情の起伏が激しかった人はそれを自制できるようにはなるが、元々感情表現が乏しかった人は(表現してはいけない、という無意識的抑制が無くなり)逆に感情豊かになる。

 

「人は悟ると他人に感情移入しなくなる」

しなくなるのではなく、することもしないこともできるようになる。

 

「人は悟るとあらゆることに関心が無くなる」

無くなるのではなく、関心を持つことも持たないこともできるようになる。

 

「人は悟るとどんな笑い話やギャグを聞いても笑わなくなる」

笑うことも笑わなくなることも、以下同文。

 

「人は悟ると何を聞いても感動しなくなる」

感動することもしないことも、以下同文。

 

「以上同文、泣かなくなる」

泣くことも泣かないことも、以下同文。

 

「悟ったかどうかを計る絶対的な基準がある」

悟りとは程度問題であり相対的主観なので客観的基準や指標はないが、例えば「自分の行為の原因は何%自分にあるか」「自分の怒りの原因は何%自分にあるか」「TVタレントや政治家のうち何%が嫌いか」等の質問に対する答えによって悟りの度合い(精神成熟度)を推し量ることは可能。

 

「一度悟った人は二度と煩悩に苦しまなくなる」

悟ったことを忘れれば苦しむ。同じ煩悩には苦しまなくなっても、未だ悟っていない他の煩悩があれば苦しむ。煩悩(即ち悟り)は一種類ではなく程度問題なので、どんな煩悩に対しどれ程悟っているかは個人により様々。

 

「人生の目的は悟ること。誰でも死ぬ前に悟るべき」

人生に元々目的はない。「悟るべき」「悟らねば」も煩悩のうち。

 

「悟った瞬間は目の前が晴れ渡り笑いが止まらなくなる」

ケースバイケース。度合いに応じて、「なるほど」と合点したり「へぇー」と感心したり「ふむ」と頷いたり「そうそう」と相槌を打ったり「あっそうか」と閃いたり「ナヌーΣ(゚Д゚;ノノ」と驚いたり「ガビーン ゚ ゚ (д;)」とショックを受けたり「ガックシ(_ _||)」と観念したりなど、その程度と内容と個人差によって反応は様々。

悟りとは登山のようなもので頂上に着けば周囲がよく見えるようになり、一旦登れば似たような山の向こう側を想像できるようになる。人間が大きくなれば相対的に山(煩悩)は小さくなる。

 

「怒りや煩悩は自然な感情」

人為的感情。怒りは自己存在価値の喪失(劣等感・罪悪感)に対する拒否反応であり、何であれ自分の可能性を否定された時、人は怒りを感じる。

唯一の自然な感情は「愛」であり、その他の感情(喜怒哀楽)は不自然(人為的)。

 

「人為も自然のうち」

大局的にはその通りだが、自然を使った庭園や田畑が人工物であるのと同様、概念や煩悩も人工物。

 

「正義の公憤・正しい怒りもある」

公憤も私憤のうち。怒りの原因は無知であり本質を見間違った結果生じるものなので、「正しい怒り」は存在しない(存在すると思い込んでいる個人の脳内以外には)。怒りの目的は、自分に優越感(快感)、相手に罪悪感(不快感)を与える事であり、所詮エゴ。

人は鏡。人は自分自身の中にないものを相手の中に見る事はできない。

 

 

 

 

Ⅴ 性風俗・性教育に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP    

 

「援助交際とは売春のことである」

必ずしも売春(性交)に至らない交際(食事やデートのみ)もある。援交は援交、売春は売春c

 

「売春・買春は愛のある証拠」

あるのは金や性欲充足に対する自己愛。相手に対する愛があればそこに金銭等は介在しない。

 

「売春の目的は金」「体を売るのは生きるため」

単に生きるためなら生活保護を貰えば済む。売春の本当の目的や理由は「愛を満たす、或いは自由を得ること」にある。

金銭欲は愛や自由の不足の表れ。金を言い訳にすれば本人の罪悪感が薄れたり拝金主義者を納得させたりできるので、口実にしているに過ぎない。

 

「性風俗が許認可制なのはおかしい。全て排除すべき」

セックスワークも職業のうち。あらゆる危険性とその回避策を承知の上でなら、性風俗で働く自由と権利は誰にでもある。

禁止すると却って闇風俗が横行し、より多くの資金源が暴力団等に流れる。ある程度、性病防止や入管法等の知識のある者に経営させた方が、行政が監視・指導し易くなり、治安や当事者の身体安全を担保できる。

軍事産業同様、社会が未成熟なうちは愛に飢えた人間の憩いの場として風俗産業は必要悪。かつてアメリカで禁酒法が失敗したように、早急な理想の実現ばかり追っていては現実に対応できない。

 

「日本の社会は性風俗に甘く、規制が遅れている」

性的にオープンであるということは、それだけ文明文化が発達している(民度が高い)証拠。規制は、国家が国民を信用していない証拠。

 

「性風俗に甘い社会では、性犯罪が横行する」

「性教育の遅れた社会では、」が正しい。

 

「性を恥ずかしがる事は自然」

植物は自ら花を大っぴらに咲き誇り、花粉を大量に空中に飛ばしている。動物も性交を隠さない。隠す方が不自然。

 

「男は童貞を捨てて一人前」「女性は貞操を守るべき」

低水準の性教育しか受けてない者に多い勘違い。こうした古い貞操観念に縛られている事自体が、半人前の証拠。

 

「自慰行為はすべきではない」

くしゃみや屁や排泄と同様、したくなったらするのが自然。健康や生殖機能の維持にも繋がる。

 

「エロ本がコンビニに置いてあるのは不愉快」

不愉快に感じる者自身の自業自得、自己責任。

 

「感情は自己責任なので、エロ本が不快だからといって規制するのはおかしい」

規制する自由もまた表現の自由の範疇。結局「エロ本が置いてないことによる不快」と「エロ本が置いてあることによる不快」を天秤に掛けることになる。社会が成熟すれば自由概念は向上しほぼ誰も不快に感じ(ても文句を言わ)なくなるので、エロ本はどこにでも堂々と置かれるようになる。

 

「子供が読んだらどうする。教育上宜しくない」

子供に対する適切な性教育の施し方を知らない無能な大人の責任転嫁。

 

「早いうちに教えたら子供が非行に走る」「性犯罪について教えれば、性犯罪を肯定する子供が増える」

仮にそうなるとしたら教え方が拙いだけ。子供のうちから性犯罪に関する知識を与えれば、性犯罪の加害者・被害者双方を無くす事にも繋がる。

 

「小泉総理大臣も批判していたが、子供に人形を使った卑猥な性教育をするのはけしからん」

対象の子供は知的障害があるので、あれ位で丁度良い。どんな伝え方が最も教育効果があるかは現場の教師が一番よく知っていることであり、第三者が己の低俗な性概念を根拠に批判するのは御門違い。

 

「青少年健全育成のためには、性に関する情報は隠すべき」

こうした隠蔽体質は「正しい教育する自信がない」ことの裏返し。青少年の人格・自主性・自律心を信じることができない大人に育てられた子供は、同様に人間不信を抱いた大人に成育する。

 

「性教育は学校ではなく親がすべき」

現状では本来は親の資格のない者でも親になれる以上、私教育よりも公教育を徹底した方が良い。その為の施設・機関。

 

「児童ポルノも表現の自由」

子供は判断能力・責任能力が乏しいので表現の自由ではない。成人であっても「本人がその結果や影響を十分理解し同意」しない限りは自由ではない。但し、小説や漫画やアニメなどで架空の児童を描くことは表現の自由の範疇。そこを規制すると却って現実の児童に危険が及ぶ。

 

「ロリコンマザコン・デブ専ガリ専フケ専・ゲイレズバイ・ヌーディスト露出狂・SMスカトロ・ネクロフィリアは変態で異常で犯罪者で嫌いキモイ考えられない反吐が出る死刑で良い」

と主張する者が十分な性教育を受けていないため免疫力・順応性・適応力が無いだけ。自分が理解できない性癖を異常と見做すのは単に見識が浅い証拠。嗜好や性癖それ自体は、個人の内心と表現の自由であり犯罪ではない。犯罪となるのはその性癖を満たす行為が他者の人権を蹂躙した場合に限られる。

 

「パラフィリア(性的倒錯)はどれも愛の形の一つ」

より正確には「愛の不足の形」。不足している者ほど執着し追い求める。

 

 

 

 

Ⅵ 障害に関するよくある勘違い

 

HOME    TOP    

 

「障害者手帳を持っている者だけが障害者」

個人によって症状や程度は様々で、国の基準を満たさないレベルの障害・支障を抱える人は大勢いる。広い意味ではイライラが治まらない、近視乱視遠視、漢字が読めない、計算に時間が掛かる、歯が無い、耳が遠い、○○依存症も障害。蚊に刺されて痒みが鎮まるまで手が塞がることも、一時的な軽い障害。

他言語を流暢に話せないのも思い込み故に勘違いしたり他人を理解できないのも、コミュニケーション障害の一種。

 

「子供やお年寄りは障害者ではない」

個人差はあるが、子供もお年寄りも全員何らかの障害(言語・記憶・身体能力に欠ける、オムツ・介護が必要等)を持っている。

 

「健常者であっても、他人を誹謗中傷したり差別発言をしたり暴力を振るったりイライラすることはある」

怒れる者は、その身分やIQや社会的地位などとは無関係に、その瞬間は全員漏れなく「人格障害」を発症している。

人格障害は最もありふれた障害で、しばしば知的障害・精神障害に併発して現れる。一般的に脳が未発達な子供に多く、通常は精神的成長と共にその障害の度合いは軽減される。

酒癖の悪さも、その症状が現れている間は人格障害。誹謗中傷を繰り返す者は、学習障害や発達障害があると言える。

 

「障害者は前世で悪い事をしたから現世で報いを受けている」「悪い事をすれば来世で障害者になる」

障害は生物物理学・生物化学・遺伝子学上の作用反作用の結果起こる単なる生理的反応・現象であり、全て現世における因果。喜ばしい事でも忌むべき事でもない。

この世は全て必然であり、不条理も理不尽も偶然もない。前世や来世は、それがあると思わなければ物事の因果を納得できない無教養者(これも広義の知的障害者)によるフィクション・妄想。

 

「障害者は臭い汚いウザい怖いうるさいキモイ失せろ死ね」

そう感じる者の人生が浅く、免疫力が無いだけ。誹謗中傷など拒絶反応を起こすのは人格が未形成な為に起こる一種の適応障害・コミュニケーション障害・人格障害の表れ。人格障害者ほど身体障害者を扱き下ろすのは、心理学でいう「自己投影による同属嫌悪」、形而上学でいう「人は鏡」。

とはいえ人格障害者を非難・隔離するのは間違い。いじめっ子や犯罪加害者同様、彼らに必要なのは叱責や処罰ではなく、適切な精神的治療と矯正教育。

 

「顔が不細工、性格が歪んでいる、目が一重、歯並びが悪い、顎が出ている白髪デブ禿、貧乏、五体不満足。これらも全て障害」

いずれにせよ本人が日常生活に特段不便を感じないなら、障害ではなくただの個性。

 

「障害や病気は個性ではない」

如何なる障害も病気も個性の一つ。障害でない個性はあるが、個性でない障害は無い。

 

「社会にとって障害だから障害者」

因果が逆。機器・道具類が未発達な社会では近眼は障害だが、眼鏡等で容易に矯正可能になると障害扱いされなくなる。「社会が成熟しておらず機能不全だから、個性が障害と見做される」が正しい。

 

「他人の力を借りなければ出来ない事があるなら、障害者」

その意味では全ての人間が障害者。

 

「毎朝化粧に何十分も掛けるのも、障害の一つ」

化粧無しでは表に出られず、そのことに苦痛を感じているなら一種の精神障害(強迫観念症)。特段苦痛を感じない(寧ろ楽しい)なら障害ではない。「化粧が終わるのを待つのが苦痛」の場合、その苦痛を感じる側の心のゆとりの無さが苦痛の原因であり一種の精神障害。

 

「脳性麻痺は知的障害」

身体機能障害。通常は知的障害は伴わない。

 

「ネット上の障害者差別は、規制すべき」

彼らは「他人を罵ったり蔑んだりせずには居られないほど精神的不安・ストレスを抱えている人格障害者」。バーチャルでの自己表現の場を規制すればリアルで問題を起こし兼ねず却って危険。 暴言を真に受けて感情的に対処する「言葉狩り」は、そうした人格障害に対する理解不足の自己証明。彼らの生い立ち・境遇・背景・能力を思いやれないのも一種の人格障害(投影による同属嫌悪)。彼らに必要なのは処罰や規制ではなく救済や治療。

 

「犯罪者予備軍にも人権はある。人を殺す目的で街を歩く自由はある」

内心の自由とはいえ他人の自由を侵害する危険性がある以上、殺人の意図を持った人間の行動はその意思が発現する前に制限されて然るべき。精神を病んだ人(第一被害者)を社会が放置するから、第二の被害者を生じる。

 

「障害者は普通学級ではなく、特別学級・特殊学校で教育を受けるべき」

如何なる障害者も、可能な限り他の生徒と一緒にした方が良い。子供のうちから身近に様々な障害や病気に接することは、視野を広げ情操教育にも役立ちその経験は金に代え難い。

一般に子供ほど発想が柔軟で適応能力・順応性が高いので、暫く一緒に過ごせばやがて慣れてそれが当たり前になる。コストや多忙を言い訳にするのは事勿れ主義。

 

「障害者はいじめる(られる)ので、隔離すべき」

指導力の乏しい大人に多い事勿れ主義。いじめの発生は子供たちに対して教育指導をする好機。それを活かせない者は教師の資格が無い。別記「人権侵害に関するよくある勘違い」参照。

 

「無能な教師や親は一種の障害者。育児を辞めるべき」

無能さも個性のうちで程度問題、スペクトラム。障害や病気に悩み苦しむ大人の存在は、接する子供の知見・理解を深めるための生きた教材となる。

 

「障害者によるお笑いパフォーマンスやプロレスは、見世物を見るようで痛々しいし笑えないしキモイし引く」

そう感じる者が見慣れていない(愛・経験が無い)ために、適応障害を発症しているだけ。中にはさほど面白くないものもあるが、つまらなければスベるのは健常者も同じ。

なお「見世物という表現には抵抗を感じる」のは、「見世物」に対する偏見や差別を持っている証拠(自己投影)。

 

「障害者のお笑いパフォーマンスやプロレスやパラリンピックを見て感動した」

もし「障害者だから感動」するのであれば、裏を返せばそこに偏見がある証拠。偏見が無い者は障害の有無を意識せずに感動する。

 

「結婚したいが、障害を持った子供が生まれたら嫌」

その程度の覚悟もないということは十分精神的に成熟していない(広い意味で知的障害が残っている)証拠なので、結婚はまだ早い。

 

「出生前・着床前診断で障害児を堕胎できるようにすることは、障害者差別に繋がる」

「病気や障害の排除」と「病気や障害を持つ人の排除」は別の話。受診自体は選択の自由であり差別に当たらないが、障害を理由とした堕胎は差別でありかつ事実上の殺人。

「障害があれば産まない」と決めている親は“知的に未熟な適応障害者(子供)”。そんな未熟者に障害児の育児を強要する社会もまた未熟。

 

「出生前にDNA操作して障害を除去することは障害者差別に繋がる」

「病気や障害の排除」と「病気や障害を持つ人の排除」は別の話。眼鏡・補聴器・松葉杖・車椅子・自動車・飛行機・バイアグラ等は全て障害を克服するための道具・ツールであり、それがテクノロジーと共に進歩するのは自然。道具を使う時期が胚の状態の時か胎児状態の時か発育後かの違いがあるだけ。

 

「昔なら自然と死ねたのを、近代医学の力で無理矢理生かすのは不自然」

医術の発達も自然のうち。延命するチャンスがあるならそれを生かすのも自然のうち。

 

「レイプや経済的事情による望まれない子供は中絶すべき」

子供に罪はない。母親に選択権があるが、母体に危険がある等やむを得ないケースを除き、殺す理由にならない。母親に育児する気がないなら、地域や国が子供を保護し支援・扶助するのが成熟した社会。

 

「中絶の最大の理由は経済的困窮」

経済的に子育てする余裕が無いと知りつつセックスした油断こそ、最大の理由。

 

「生まれても本人にとって幸せではないので堕胎も選択の一つ」

幸せかどうかは本人しか分からない。分からないのに殺すのはエゴ。この手の主張の本心は「障害児が生まれたら私自身が不幸」。

 

「エゴイズムも自然のうち」

「人為も自然のうち」という意味ではその通りだがエゴへの拘りは怒りや悲しみ同様、人為的感情。自然な感情は「無条件の愛」のみ。

 

「障害者は社会資本や税金の無駄なので、支援しない方が良い」

資本主義が高じた拝金主義。サヴァン症候群のように常人には無い能力が発達するケースもあり、適材適所で個性を生かせば良い。それができない社会自体が機能不全(障害)を起こしていると言える。 今のうちからバリアフリー化に投資しておかなければ、第二第三のホーキング博士や乙武氏のような有能な人材がそれだけ活躍の場を狭めることになり、却って豊かさや多様性が失われ社会的損失を被る。

 

「障害者は社会のお荷物だから、出産や延命をすべきではない」

視野狭窄した優生思想。誰がある日突然障害者になっても、速やかに快復しその能力を遺憾なく発揮できる社会が成熟した社会。種々の障害に対応できる措置を講じることやその為のシステム・環境整備・医学の発展・福祉の充実・人々の啓蒙のためにも、障害者の存在は社会の成熟に欠かせない。

利益第一主義は、教育・啓蒙が十分でない(偏っている)ことの現れ。視野狭窄も学習障害の結果起こる。

 

「食って糞して寝るだけの寝たきりの障害者は、社会に貢献できないので生きる価値は無い」

器の小さい排他主義。食って寝て糞するだけでも、食糧費、ベッド代、オムツ代を消費しその生産者・運搬業者に利益を与え、世話をする医者・看護士・介護士の識見・技量を高める機会も与える。彼らの情熱が技術者の熱意となり、ロボット工学の発展やバリアフリー化・利便性の向上にも寄与している。

 

「生活困窮者やホームレスは努力が足りないからなった。援助すべきではない」

了見の狭い能力至上主義。努力も才能のうちであり、その才能の限度や有無はDNA等の環境に依存し、本人の責に拠らない。自由放任主義を是とし社会的弱者を冷遇したがるのは、裏を返せばその主張者自身が心の余裕が無く精神的ケアを必要としている証拠。

 

「医学が発展すれば無脳症の子供でも生きることができるようになるかも知れないが、QOLの観点から問題がある」

蜻蛉も蛙も脳が小さくほぼ無いに等しいが、己のQOLを考えずに命ある限り精一杯生きる。命の尊厳はどれも同じ。生きようとする者がいれば可能な限り、それを支援するのが成熟した社会。

 

「医学が発展すれば如何なる障害者も奇形児も生かす事ができるようになってしまう」

額に生殖器が付いていようと、或いは足裏に耳があって頭頂に肛門があってその横に鼻があろうと、全て個性。皆で一緒に仲良く遊べばよい。医学の発展により多様な個体が生じるのは自然の理。

 

「障害者用駐車場に健常者が車を停めている。罰すべきだ」

周囲への配慮がない利己主義も立派な精神障害・人格障害。従って彼等が障害者スペースを利用するのは強ち間違いではない。目に見える障害だけが障害ではない。

 

「パラリンピックでは障害者の社会進出が進み用具が発達している高度福祉国家ほど、良い成績を残す」

障害者が冷遇されている低福祉国家ほど、待遇改善のため結果を求めようとすることもある。

 

「パラリンピックは廃止すべき」

オリンピックと同時混合開催するために、ならその通り。但し不平等を排除するための差別化・ルール作りは必須。

 

「特別支援学校・学級は廃校すべき」

普通学校・学級に吸収合併するために、ならその通り。

 

「幾ら説明しても相手が理解できないのは、相手に知的障害があるから」

多くの場合、己に説得力が無いからである。説得力がないのも知的障害のうち。無理解な相手は、説得力・忍耐力・共感力・適応力の無い己自身の"鏡"。

 

「障害者をジロジロ見るのは差別」

見る事自体は差別ではない。興味・関心がある証拠で寧ろ愛の表れ。未経験な物には人は自ずと不安を感じる。それが解消できるまで見せてやるのも愛。それが綺麗でも汚くても、見慣れてまえばジロジロ見なくなる。

 

「ダウン症の人は大学に行けない」

症状には個人差があり、中には大学を卒業する者や小説を執筆する者もいる。

 

「ダウンには否定的な意味があるのでアップ症とすべき」

単にダウン氏が発見したからダウン症。否定的だと言ってる者自身の心の中に偏見や差別がある証拠。

 

「障害は否定的なイメージがあるので障がい、障碍、ハンディキャップ、挑戦者等とすべき」

障害物競争は、途中で梯子を潜ったり平均台を渡ったりパンを頬張ったり借り物をしたり、寧ろ楽しいイメージがある。そうでなくても様々な困難が待ち構えているのが人生というもの。障害を楽しめないとしたら、競争一辺倒の価値観を重視する社会通念に毒されている証拠。

言葉をどう解釈し感じるかは個人の主観。否定的に捉える本人にこそ偏見や差別がある。表面的な言葉狩りはますます否定的イメージを固着化させ、問題の本質から目を逸らす。挑戦者と称してもややこしくなるだけ。

 

「顔が醜い者は整形手術すべき」

と主張する者が適応障害を発症している。ルッキズム(外見主義)は哲学が浅い証拠。主張者本人が心理学や哲学を学び内省・内観して己の心を手術すれば、このような主張はしなくなる。

 

「見た目が醜いので整形手術したい」

上記の適応障害者の価値基準の伝達により引き起こされる「心の感染症」。治すべきは「顔(体)」ではなく「心(身体醜形障害)」。

 

「顔が醜いからといって整形手術すべきではない。ユニークフェイスも活かせば金になる」

リスクや副作用の可能性など本人が十分な知識と覚悟を持った上で選択するなら、表現の自由。

 

「親に貰った大切な体にメスを入れる・ピアスで穴を開けるなんて許されない」

誰でも髪や爪を切るし、生まれた時にはへその緒を切る。ピアスや入れ墨などの人体改造・自傷行為・変身願望の多くは情緒不安の表れであり、これらもまず必要なのは精神治療。

 

「中絶は殺人なので許されない。中絶する医者は殺すべき」

感情論は極まると必ずこのように自家撞着する。

 

「受精卵は命ではない」「胎児は人間ではない」

卵やオタマジャクシが蛙の一形態であるのと同様、受精卵や胚も形態は違うが人間即ち人命。卵子や精子は人間ではないが、着床した受精卵は母体に寄生した状態の人間。

 

「クローン人間は人工的に作られた機械のようなもの。クローン人間の命は人命ではない」

人工的に作られようと生命は生命。そもそもセックス自体が人工的行為。

 

 

「検討中考案中調査中思索中勉強中休憩中考え中検索中困惑中勘案中募集中待機中」

HOME   TOP