解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theory
Ⅰ 解釈する側の自由と責任 ※簡易版(-""-;)とよくある質問&回答
Ⅱ 感情自己責任論 ※通常版(℃_°)とよくある質問&回答
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文章や映像を見て怒りを感じた時、殆どの人はその怒りの原因は「文章の書き手」「映像の中の人物」にある、と考える。
しかし画面に写る文字や映像の実態は単なる白黒模様・ドットの集合体。パターン化された濃淡・明暗が可視光線となって空間を伝わり、網膜を刺激しているに過ぎない。
網膜からの信号が脳内で記憶・固定観念を想起し、読み手が認識するまで、文字はただの信号・記号でしかない。読み手自身が意味を翻訳し咀嚼して初めて、人は怒りを感じる。
実際には、各人の価値観・判断基準は異なるので反応やその度合いも人それぞれ。中には怒りを感じない人もいる。
つまり怒るか怒らないかは、文章の存在ではなく読者自身の解釈の仕方・捉え方如何で決まる、ということ。
多くの人は解釈・判断を殆ど反射的・自動的・無意識的に行っているので、「自分が選択している」という自覚がない。そのため、短絡化して怒りの原因を情報の発信者と見なしがちになる。
しかし情報に対してどう解釈し反応するかは読み手が決めていることなので、書き手には「読み手の反応」に対する原因はない。読み手である己の解釈の結果生じた怒りを書き手のせいにするのは、筋違いである。
「いやいや、そもそも書き手が書かなかったら怒りは生じないのだから書き手にも原因があるではないか」
読む側が「これ以上読んだら怒りが沸きそうだ。読みたくない」と感じたら、いつでもその場で目を逸らしたり瞑ったりそのページを閉じたり出来る。つまり読み手が読まなかったら怒りは生じない(強制的に目を開けさせられ無理矢理読まされた場合でも、何をどう解釈するかは読み手次第)。
読み進めかつ読解しているのは、他ならぬ読む側の意思決定。従って、その選択結果(怒り)は甘受すべきである。
書き手にあるのは、あくまでも「情報を発信した(読む機会を与えた)原因」であって、「読み手の怒りの原因」ではない。
読む側が「書き手が書かないなら怒りは生じないので書き手に原因がある」と思うのもまた読み手の固定観念が原因であり、この固定観念に執着するのも、読み手の選択結果。
有史以来、大半の人々は怒りの原因が自分の内側にあるという認識がなかったため相手のせいにするのが社会通念にすらなっているが、本当はそれは大間違い。
仮に認識していても「どんな固定観念が怒りの原因か」や「どう考え方を変えればよいのか」を知らず、尚且つ己の無知や努力・忍耐力の無さを省みたくないので、楽な方を選んで自分以外の他者を批判してしまう人が多い。
「いやいや、共通言語を用いて意思疎通を図る以上、どう書けば相手がどんな解釈・反応をするかは予測出来る。だから読み手の反応の一部は書き手にも原因があるではないか」
「書く」「予測する」の主体は書き手自身だが、「解釈する」「反応する」のは読み手にある。
どんな反応をするかは読み手によって異なり必ずしも予測と現実は一致しない(意図していなくても相手が勝手に誤解することもある)。
何故なら例え同じ共通言語を用いていても、単語一つ一つの定義や適用範囲やそこから連想されるイメージや記憶や含意(コノテーション)は各人によって異なるからである。日本語を話す人が1億人いれば1億通りの日本語がある、と言える。
同じ人でも長い時を置いて読み直せば、同じ本や映画でも受ける印象・解釈の仕方が異なるのは、その人の価値観が変わったことが原因。
上記のいやいや以下を置き換えると「共通言語を用いて意思疎通を図る以上、どう読めば自分がどんな反応をするかは予測出来る。だから読み手の反応は読み手に原因がある」となる。
この場合「読む」「予測する」「反応する」はいずれも同じ主体。いずれの行為も、その主体・原因は行為者自身にある。自分で為した行為には自分で責任を取るのが筋。
「いやいや、書き手が意図的に読み手を怒らせてたら、書き手にも読み手の怒りの原因はあるではないか」
書き手に積極的に相手を怒らせる意図があっても、それに同調するか否かは読み手が決めること。
「言葉を使う」とは、発言する事だけではない。言葉を解釈する事も、「言葉を使う」うちに入る。
例え相手が所謂「侮蔑語」「差別語」を用いて貴方を故意に侮辱しても、それに対してどう反応するかは貴方自身が決めている。
「この言葉は相手を馬鹿にする(怒らせたい)ときに使う」と読み手自身が自分の中で定義しているということは、即ち「機会があれば自分自身がその単語を用いて相手を侮辱するつもりでいる」か、或いは「相手を馬鹿にするときにその単語を使うことは正しい」と信じているということ。だからこそ、それを相手が使ったときに怒りを感じる(自己投影による同属嫌悪)。
「そんな表現を使うべきでない」と相手の自由を制限しようとするから、自分も不自由感(=怒り)を感じる。
これが因果応報であり、作用反作用の法則、自業自得、身から出た錆、人を裁けば自らが裁かれる、相手に為した行為が己に返ってくる、ということ。自分が自由を得たいと願うなら、相手に自由を与えなければならない。相手に自由を与えた瞬間、人は自由を獲得する。
「いやいや、仮に100人中99人が怒るとしたらその文章に99人の怒りの原因があることになるのではないか」
80億人が怒るとしても、その各人が持つ価値観が各人の怒りの原因。尚、「多いから正しい」は詭弁(多数論証)である。
「いやいや、表現する側にも自由がある以上、それに対して責任が伴うではないか」
無論、自由には時に責任が伴う。しかし上記の通り表現物を「どう捉え解釈し反応するか」の自由と原因は、解釈者側にあって表現者側にはない。原因がない以上、責任もない。
表現者に責任があるとすれば、「解釈者の反応」に対してではなく「表現したことを契機に自らが被る不利益」に対してである。例えば表現後に周囲からの信頼を失うなどした結果感じる怒りは当然、それを感じる当人にある。
「いやいや、読み手の中には成長途中の子供もいる。日本語の覚束無い子供にも解釈の責任を押しつけるのは酷ではないか」
酷なので、通常は責任能力を問われない。だが各自に原因があるという事実は変わらない。
書き手の中にも成長途中の(精神的な)子供がいる。どちらも日本語の覚束無い子供であることに違いはない。
聞き手の子供が侮蔑語を侮蔑語と認識しそれによって不快感を受けるなら、本人の自業自得。
侮辱語を言うも言わぬも言論の自由。言葉狩りをしても問題の根本的な解決にはならない。
寧ろ子供の内に様々なレベルの文章を読ませることは、「解釈する側の自由と責任」を教える良い機会に繋がる。その機会を奪えば、子供の成長はそこで止まる。
多くの親が、子供の為と言いつつ実際には自らの面倒を避ける為に、その機会を子供から奪っている。
最初から「悪影響があるから」と制限する親は、「我が子は影響され易い」「後のフォローの仕方が分からない」と思っている。この思考は現実に「影響されやすい子」「フォローの仕方が分からない自分」を具現化させるだけなので、止めた方が良い。
対処する術を学ぼうとせずに子供を信用しない親の多くは、子供から信用されなくなる。子は親の鏡。
「いやいや、いずれにせよ言葉を使う側が読み手に誤解や不快を与えないように配慮すればいいことではないか」
上記したとおり誤解も不快も、原因は読み手にある。自分で誤解や不快を選んでおきながら「配慮して欲しい」とは我が儘以外の何ものでもない。
原因が己にあることを知らないor信じたくない読み手だけが、自分ではどうしようもなくなって書き手に責任転嫁する(その方が楽だから)。
ある程度のマナーや礼儀作法は確かに社会の潤滑油となるが、表現者側への責任転嫁をいつまでも容認していては、過保護に育てられた子供同様、読み手は「自分の解釈の仕方」を省みることがなくなり成長しない。
配慮(思いやり)が常に相手の為になるとは限らない、ということ。
「いやいや、だったらマナー・礼儀作法、ルールや法律(侮辱罪や名誉毀損罪)は一体何の為にあるのかということになるではないか」
マナーや礼儀は「感情に自己責任が取れず、判断に迷う者に基準を与え、無用な争いを避ける為」に存在する。だから精神的に自律していない弱輩者ほど、周囲にルールを要求する。法律とは、その時代の多数派の都合のいいように決まるもの。
「いやいや、感情が自己責任なら他人の感情を幾ら害しても無罪ならやりたい放題となる。危険な思想だ」
「感情が自己責任である事」と「やりたい放題、加害する事」とは、別の問題。「無罪ならやりたい放題して良い」と短絡するその発想こそ、危険。
感情の原因が本人にあることは、他者がやりたい放題して良い免罪符にならない。そもそも、自分の感情に責任が取れた人は他人を故意に傷つけない。
「いやいや、それを突き詰めると解釈するのは買い手の自己責任だからと売り手がどんな情報を流してもいいことになるではないか」
既にそうなっている。心ある売り手がトラブル回避の為に法律の範囲内で自主規制或いは客のニーズに応えているだけで、基本的に表現の自由は憲法で保障されている。
「いやいや、それだと詐欺で騙しても騙された方が悪いことになるではないか」
詐欺の場合、騙そうとする側が積極的に誤解させようと(恐怖心を煽る/虚偽を示す等)するので、マインドコントロールを受けた側が「相手の言いなりにならずに完全に自由意思で判断する」ことはあり得ない(あったら「騙された」と思わない)。
従って積極的に誤解させようとした側に、騙した(誤解させた)原因と責任がある。詐欺でも痴漢でも虐めでも、行為の原因は常に行為者にある、ということ。
「いやいや、それなら恐喝して金を奪っても、金を払った方が悪いことになるではないか」
恐喝の場合、恐怖により自由意思が制限されるので、被害者が恐喝の加害者に金を払った原因も制限される。
なお「どんな行為を受けたら自由意思が制限されたと感じるか」は、100%被害者側が決める。その恐れもまた、それを感じる人自身の非論理や無知から生じる幻想・誤解である。
「いやいや、では金を貸してくれと普通に頼んだ場合は貸した側にも責任があるではないか」
自ら喜んで進んで貸した、或いは相手が嫌がっているのに無理矢理貸したのなら、貸した側の自己責任。しかし意思に反して恐怖から逃れるため、或いは十分な情報を得られないまま貸したのであれば、自由意思が制限されているため「100%自己責任」とは言えない。制限された自由には制限された責任が伴う。
「いやいや、自由意思を制限するのもしないのもその意思の持ち主の自由選択ではないか」
仮に文字通り「自由意思で己の自由意思を制限した」としても、制限した時点で最早それは自由意思とは言わない。
例外があるとすれば、制限した自分を故意に演じている時である。
「いやいや、ならば進んで払った後でも恐喝されたと言えば恐喝になるではないか」
狂言の可能性があるので、必ずしも恐喝にならない。本当に自由意思が制限されたかどうか、またどの程度制限されたかは本人しか知り得ないので、当事者の証言等から判断することになる。
「いやいや、そんな事言ってたら偽計業務妨害罪や威力業務妨害罪が成立しないではないか」
業務停止を決定したのは妨害された側なのでその原因は妨害した側にはないが、その切欠・口実を与えたのだから法律上の罪は成立する。脅しや騙しをした原因は加害者、それらに不快や迷惑を感じた原因は被害者にある。
「いやいや、それでも積極的に不快を与えてたら不快の原因は書き手ではないか」
どんな言葉を見聞きしたら不快になるかは不快になる側の価値観で決まるので、不快の原因は読み手にある。「不快にさせる行為」の原因は100%不快にさせる側(加害者)にあるが、「不快になる」原因は100%不快になる側(被害者)にある。両者を混同するのは因果を見極めていない証拠。
「いやいや、それでは解釈者の怒りの行き場がないではないか」
行き場は自分自身。怒りの原因はそれを感じる者自身の心にあるので、自分自身で処理すべきこと。
己の怒りを他人のせいにすることこそ、あらゆる矛盾(喧嘩やいじめ、戦争その他の争い)の根本原因。
幾ら器が小さいからといって、溢れた怒りを相手に向けていいことにはならない。それが許されるのは幼い子供だけ。
「いやいや、そしたらアニメや絵画やTVについても同じ事が言えるではないか」
然り。それ以外の殆どの実生活においても言える。愛する家族を殺されたとしても、そのショックの原因は「自分の家族だけは未来永劫安全に暮らせる」と平和ボケしていた己の思い込みにある。
「いやいや、それだけでは情報の受け手は自分の価値観のどこをどう見直したら良いのか分からないではないか」
それは各人が体験を通して自分で見付けるべきことで、その為の「体験(感情)」である。
切磋琢磨しない者はいつまで経っても成長しない。結果、死ぬまで同じ事に怒り続ける。
「いやいや、それはその人の人生なんだから良いではないか」
その人がそれで良いなら良いが、本来、人生はその人だけのものではない。
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喜怒哀楽や煩悩・不平不満等の感情の原因は100%それを感じる人の持つ固定観念にある。観念に強く執着すればそれだけ湧いてくる感情も強くなる。
ここで言う固定観念とは、個々人が持つ固着観念、既成概念、主観、評価基準、先入観、世界観、見識、信条、思想、哲学、イデオロギー、主義主張、教義(ドグマ)、掟、美学、パラダイム、思考パターン、思考様式、 思い込み、自己スキーマ、予断、バイアス、偏見、マインドセット、迷信、レッテル貼り、規範、規定、規則、思考癖、命題、格言、教訓、方針、希望、期待など、無意識的にせよその人が「これは正しい」「かくあるべし」等と認めている価値観、定義付けのこと。
笑いや感動や驚愕、動物の意思(縄張り意識や生存本能)も観念に依って起こる。但し、摂食や性交等による肉体的快楽や脊髄反射・生理反応等は直接固定観念が作用せず、精神的快楽は固定観念を介するが責任問題は通常発生し得ないので、これらは当論の範疇外である。
如何なる事象も最初から意味のあるものはない。ただ「起きている」だけ。見た人が各自の視点・観点から定義を与えて初めて、意味や価値が生じる。種々の形態の情報も、元を辿ればただの光の濃淡や空気振動等に過ぎない。
貴方がたった今目にしているこの文面も、実態は単なる画面に映った黒白模様に過ぎない。日本語という共通キーを手掛かりに、貴方が現在持っている固有のフィルタ・色眼鏡を通して解読し意味を判断している。
読者が触れ得た情報をどう読み取ってどう活用するかは、完全にその読者の勝手自由。例えそれが誰かに教わった考え方・見解であっても、読み手が他者に「強要」されることなく自由意思でそれを選んでいれば、その結果に対する責任は読み手自身にある。
例えば貴方がある情報に接してどれほど憤りを覚えたとしても、それはあくまでも貴方の判断基準・尺度に照らして貴方自身が無意識的にせよ選んだ解釈の結果であって、その情報の発信者には「貴方の憤りに対する原因・責任」は全くない。
ここで言う「強要」とは肉体に対して直接的物理的な実害が及ぶケースのみであり、暴言や誹謗中傷についても、騒音となるもの以外「強要」に当たらない。例えそれが脅迫文でも、恐怖心を抱く事自体は読み手の勝手な所為、自業自得ということ。
つまり人は本来自分の感情を他人のせいにすべきではない。怒りの矛先を少なくとも自分以外の誰かに向けるのは、筋違い。これに気付いていない人同士が互いに鏡となって矛盾を見せ合う行為・現象が「争い」である。
従って貴方が誰かに嫌悪感を抱いても、その原因は常に「貴方の持つ固定観念・定義付け」であって「相手」ではない。逆に誰かが貴方に嫌悪感を抱いても、全く一切何ら断じて金輪際ちっとも全然まるっきし貴方のせいではない。「生意気だから」「ムカツクから」等といういじめやその報復の口実も、全く言い訳にならない。
そもそも何を見てどんな印象を抱きどう感じるかは個人の自由。もし貴方がその自由に制限を与えようと(例えば相手に自分の理想を押しつけようと)すれば、その瞬間に貴方も不自由(苛立ちなど)を感じる羽目になる(人を裁けば自らが裁かれる)。
これが「貴方が与えたものを貴方が受け取る」という、この世界の仕組み(仏教で言う因果応報、物理学で言う作用反作用)。
逆に言えば、仮に貴方が意図せずに誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ない
相手が幾ら貴方に罪悪感や劣等感を感じるよう仕向けたとしても上述のように御門違いなので、何ら貴方が自己嫌悪に苛まれるべき理由にならない(これは無論、迷惑を掛けたり失敗しても反省や訂正や改善をしなくて良いという事ではない)。
感情自己責任とはいえそれを表現すべきではないという事では決してない。感情は自己表現の一つであり自他共に己を知らしむチャンスなので、寧ろ積極的に感じたままを間を置かずに表現すべき。
実際、感情を抑圧する者ほどそれを爆発させやすく、感情の自己責任が取れていない者ほど他者の表現の自由を制限したがる(自分が傷付かなくて済むように)。
自称知識人の多くは自覚がないが、「何かを批判・非難する」ということはその対象に関して中途半端な知識しか持っていない証拠(無知の無知)。これが、批判・非難が一時的表面的解決にしかならず、実態は益々隠蔽され問題が長期化する所以。
感情に限らず人生で体験する全て(外界)は「体験者がどんな固定観念を持っているか(内界)」を映し出す“鏡”に過ぎない。従って感情的な批判や非難は全て自己矛盾する。
例えば、極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責め立てる人ほど、その罪人の立場を思いやれていないように。
何かと差別問題化したがる偽善者の心の中にこそ根深い差別心があるのも同様。内部に矛盾がなければ外部に矛盾を見る事はできない。
人は100%、当人が与えた定義付け通りを体験する。「人生は必ずしも思い通りにならない」と定義していれば、正にその通りの(必ずしも思い通りにならない)体験をする。
従って、繰り返したくない体験に出会ったら「どんな固定観念がこの体験を見せているのか」「その固定観念は執着に値するのか」と考えてみると良い。原因となっている観念を変えれば、似たような体験をしなくなる(変えなければ似たような体験を繰り返す)。
「体験が先で観念が後、という観念」も含めて、常に「観念が先で体験が後」。常に本人の現時点の固定観念が、過去や環境を定義している。
個々人のみならず集団・社会においても観念は具現化する。グループ全体が抱いている観念はそのグループ内で起こる出来事となって現れる。例えば貧困は人々の中にある「飢餓への恐怖」、犯罪は「自己存在の喪失に対する恐怖」が顕在化したもの。
全ては必然であり、起こるべくして起こっている。偶然や奇跡、運不運、矛盾、不合理、理不尽、不条理などは、その現象・物事の因果や必然性を理解(説明)できない人が言い訳として用いる概念に過ぎない。
同じように「闇」も存在しない。存在するのは「知覚能力の限界」。同様に「客観」も存在しない。存在するのは「共有された主観」。
真実は「人の数だけ」ある。「真実は一つ」は、数ある真実の中の一つに過ぎない。だからいつの世も「唯一の真実」に拘る人だけが、争いを通して己の矛盾を体験する。
以上は、どこかの一般人が短い生涯の間に知り得た狭い視野から捻り出した独断と偏見の賜物、即ち単なる個人的主観。真か否かを判断するのは貴方自身であり、いずれにせよ貴方は貴方が信じた通りを体験する。
以下、よくある反論と回答
「感情が自己責任なら、どれだけ迷惑をかけても迷惑がる方の勝手という理屈が成り立ち犯罪者擁護に繋がる」
⇒ そもそも犯罪とは感情に自己責任が取れてない者が行う愚行であり、感情に自己責任が取れているなら迷惑行為に至ること自体がなくなるので寧ろ犯罪は減る。
「相手の解釈を汲み取るからこそ意思疎通が成り立つ。自分の解釈だけでいいなら社会が成り立たない」
⇒ もともとコミュニケーションが成り立つのは両者が主観を共有するからであって、各々が各々の主観に基づいて解釈している事は最初から変わりは無い。社会が成り立たなくなるのは、自分の解釈だけを正しいと盲信し他者に強要したりした時。
「感情自己責任なら、名誉棄損や侮辱罪は一体何のためにあるのか」
⇒ 全ての法律の存在目的は「トラブルの未然防止と社会の円滑な運営の為」。信号機と同じで己の選択に迷う人々にとっては行動基準となるが、侮辱せず又されても何とも思わない人にとっては最初から無用の長物。時代を経れば侮辱罪も次第に使われなくなり有名無実化し廃れることになる。成熟した社会で死刑が不要になるのと同じ。
「精神年齢の成熟には個人差がある。万人に感情自己責任を適用するのは理想論」
⇒ 個人差は教育で埋めれば良くその為の教育。人類の精神性が高まれば、感情自己責任は至極当然の社会通念となる。
「固定観念は動植物や無機物・鉱物にはない」
⇒ 人間と同じレベルの固定観念はないが、強いて人語に翻訳すれば「ここは俺の縄張りだ」「危険だ逃げろ」「もっと光を」「虫よ来い」などの彼らには彼らなりの観念があるとも言える。人間ほど豊かな感情表現をする術を持たないというだけ。
また無機物にも、最も原始的な観念「一つになろう」「均一化・同質化・エネルギー的に安定化しよう」という観念で表せる性質があり、それが万有引力や拡散・共鳴・共振などの現象として観察できる。
「例えば、文才があれば多くの人を感動させる。この場合、感動の原因は才能にある」
⇒ 感動の原因も感動した者自身の解釈の結果。表現者の才能と解釈者の理解能力との間に因果関係はない。「原因」と「原因の原因(遠因)」は異なる。
「論文形式ではない。査読されてない。引用元文献やデータがない。だから読む価値がない」
⇒ 権威主義的な「酸っぱい葡萄」。有史以来、世界中の賢者が異口同音に述べ伝えてきた常識でしかないので、今更正式な論文にする理由がない。最小限必要なリンク先は併記している。読む読まないは各読者の自由。
「感情自己責任論は矛盾している・間違っている」「読むとイライラする」
⇒ 往々にしてそれは「主張者の解釈した感情自己責任論」であって、上記されている「感情自己責任論」ではない。何であれ矛盾して見えるのはそれを主張する者が十分に対象を理解していないことが原因。イライラするのは今はまだ読む時期ではないということ。時間を置いて精神的に成熟してから読めば良い。
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